人生の余り道(歩くを楽しむ)

徳島県

坂東俘虜収容所に進む

概要

期間6月18日(金)〜6月25日(金)8日間
距離220キロ1日平均27.4キロ
状況
  • ほとんど毎日雨、 雨が降らなくても日中曇りか時々薄日が差す程度の日が多い。
  • 梅雨の真っ最中で歩く条件としてはよくなかったが、3日目に焼山寺を越えてからはマメもできず節々も傷まなかったので、 次第に自信を持つようになってきた。

県内リンク

1日目

2日目

3日目

4日目

5日目

6日目

7日目

8日目


6月17日(木) 四国への移動

梅雨の合間にしては暑い日差しのもと車で最寄り駅まで送ってもらい、家内と愛犬リッキーの見送りを受けて約1ヵ月半に及ぶお遍路行に出発する。大きな荷物を背負い、金剛杖をもった姿が下校途中の中・高生の注目を集める。

東京に勤務する三男が偶々休みだったので見送ってくれるという。東京駅の「銀の鈴」で待ち合わせ、駅前の居酒屋で送別の食事をご馳走してくれたほか、道中の無事を祈ってわざわざ明治神宮にお参りし、お守りを贈ってくれた。自分自身では、歩き遍路がそれほど大それたこととは考えていないが、周囲の人は大丈夫だろうかと思っているのだろう、十分に注意して行動しなければと改めて思う。

徳島への移動は夜行バスを利用する。東京駅八重洲口を出てすぐのところから「ことバス」に乗る。明日はすぐに歩き出すのでできるだけ体力の消耗を防ぐため「プレミアム3」という3列独立シートのゆったりタイプのバスを利用した。出発してほどなくして車内は消灯し就寝の態勢に入ったが、ゆったりタイプとはいったものの体の収まり具合が悪くほとんど寝ることはできなかった。

6月18日(金) 1日目

人影もまばらな、雨の駅前通り

6時20分徳島駅に着く。街は朝の活動前の静かなたたずまい、駅前は人影もまばら。JR高徳線に乗り板東駅に向かうと途中から雨が降り出し、7時2分板東駅についた時にはかなり強くなっている。他にはお遍路の姿も見えない静かな待合室で、雨着の下とポンチョを着て1番霊山寺に向かう。駅前通りは人影もなく、約10分で霊山寺に着いた。

門前の売店はまだ開いていないのでそのまま境内に入る。お寺の職員かボランティアの方が参拝要領を教えてくれると聞いていたがそうした人の姿もみえないので、普段着姿で手を合わせるだけの参拝をした。納経については、参拝した証として納経帳にご朱印を頂くのだが、


@ 参拝したことは自分自身が承知していればよく、証明としての納経帳は必要ない。

A 納経時間が朝7時から夕5時に決められており、行動に制約を受ける。

B 納経料1箇所300円として88箇所では26000円あまりの経費がかかる。

などの理由から納経はしないが、納経以外の参拝については作法どおりしようと思っている。


参拝を終えてお寺を出ると前の売店に明かりがついているのでお遍路用品を買いに店に入る。300円と600円の教本が陳列されているので、店員を探してにその違いについて尋ねると、300円の方を指差して「これは役に立たないよ」との返事である。納得できない返事だったので逆にその役に立たない教本と、大小あるうちの大きい方の菅笠、自作の金剛杖の握り部分のカバーだけを買い、早々に売店をあとにした。


大麻比古神社の朱の大鳥居

2番札所極楽寺方向に進むとすぐに大麻比古神社(おおあさひこ)の朱塗りの立派な大鳥居が見えてくる。『そうだ、三男にお返しのお守りを買おう』と俄かに思いついて神社に立ち寄ることにする。三男から貰ったお守りのお返しに、四国を一周したものを渡そうと考えた。神社は、阿波一ノ宮であって徳島県の総鎮守府として信仰を集めており、境内はとても広く大鳥居から雨の中を延々700m程歩いて漸く社殿に着き、参拝した後お守りを頂く。


左の門柱:「第九日本初演の地」
右の門柱:「坂東俘虜収容所跡」

坂東俘虜収容所

2番極楽寺の途中にドイツ館がある。残念ながらまだ午前の早い時間だったので閉まっていた。また中村彰彦著の「二つの山河」で知ったのだが、この近くに、第1次世界大戦においてドイツの租借地である青島で日本軍の捕虜になった約1000名のドイツ将兵が収容された俘虜収容所がある。

収容所長の陸軍中佐松江豊寿は会津出身で、薩長の支配する時代にあって自身が差別を受ける中で、捕虜であるドイツ将兵に対し「彼らも祖国のために戦ったのだから」と、極めて人間味あふれる収容所運営を行った。

捕虜の多くは元民間人で多様な技術者・職業人であった。徳島市民との交流も頻繁に行われ、市民は当時の世界屈指の先進国ドイツの科学技術や文化を積極的に吸収した。家具製造、建築、写真、食肉加工、バームクーヘンの製造法などを学んだほか、ベートーベンの「交響曲第九番」が合唱付で本邦で初めて演奏された。


こうした徳島市民との交流が実現したのは、勿論収容所長の松江豊寿の裁量によるものではあるが、併せて、徳島の人の中に、どのような人であれ異邦人を何の差別もなく受け入れる文化が生きていたからであろう。板東俘虜収容所を通じて交わされたドイツ人捕虜と徳島県人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されており、その後の日独関係の友好化に大きく寄与した。お遍路を開始するに当たって、私にとってはお遍路文化の象徴的な出来事の現場を見ておきたかった。収容所のあったドイツ公園に来た時には既に雨は止み、公園の奥では付近の老人が談笑している姿が見えた。

二つの山河に戻る


村人の墓に混って行き倒れたお遍路の墓石が散在する。

その昔、嵐をついて現在の小松島市付近に上陸した源義経が戦勝祈願したことで知られる3番札所の金泉寺をお参りするとすぐに旧遍路みちに入る。昔とは面影が変わっているだろうが、お遍路第一日目に急に本来のお遍路みちを歩くことになり、一挙に別世界に入り込んだようで気持ちが昂ぶる。ただし、この道はマムシが出るそうなので金剛杖を突きながらゆっくり進む。


断続的に降る雨が夕方になって本降りになったので、第1日目からで残念だが野宿を断念して宿を探すことにする。実は昼頃、新しく民宿を開いたという人から是非泊まるようにと路上で勧誘を受けていたので、7番十楽寺の先にあるその宿に電話したところ、何故か「家内の具合が悪い」といって断られた。次いで十楽寺の宿坊に電話したが、「やっていない」との返事。更に6番安楽寺の宿坊に連絡したが電話に出ない。

おへんろ地図によれば付近に民宿は1件あるが、既に通り過ぎてしまっている。同じ道を戻りたくはない。そこで、昔から困ったお遍路に宿を貸すことで知られる安楽寺の通夜堂(※)に行ってみることにする。通夜堂はコンクリート製の鐘楼門の2階にある。既に5時を過ぎてしまい事前に了解は得ていないが、通夜堂には既に先客が1人いたので便乗することにした。


※ 札所の中には通夜堂を持っていて、お遍路などに無料で宿泊させるところがある。最近は数が少なくなっているようだが、 お遍路情報では16ヶ寺、その他を含めて20ヶ寺ぐらいであろうか。


お遍路の身の上は尋ねないのがエチケットだが、問わず語りでわかったことは、このお遍路さんは長崎出身(※)で、年齢は80歳前後。長崎で息子さん家族と一緒に暮らしていたがうまくいかず、数年前に自転車で家を出る。短期間帰宅したことがあるがやはりうまくゆかず、再び家を出て九州や関西を回り四国に入って2回目、もう家には帰らないという。体力が衰えたらどうするのか尋ねたが、そのことは考えていないもよう。


※ この日記の中では、名前がわからない場合は、長崎の方は「長崎さん」、奈良の方は「奈良さん」の例のように表現する。


参拝した札所:1番霊山寺  2番極楽寺  3番金泉寺  4番大日寺  5番地蔵寺  6番安楽寺

歩いた距離 :26.6km

 

6月19日(土)  2日目

5時30分起床。相変わらず雨が降り続いている。濡れたままの白衣とズボンを身に付けて6時半に通夜堂を出る。2時間ぐらい歩いたところで通夜堂に万歩計を忘れたことに気がつく。今から戻れば往復4時間のロスになる。歩き遍路は例え5分の距離でも戻りたくないもの。2日目にして歩行距離が測れなくなるのは残念だがそのまま進む。途中のスポーツ店で買おうとするが万歩計は置いていない。大きなスポーツ店は高知市に着くまではないと思うので、追送品と一緒に自宅から送ってもらうことにする。


周囲には畑しかない場所に、威容を誇る山門が建っている。

8番熊谷寺の山門は、道路や畑を挟んで100m以上も離れたところにある。昔の寺が如何に大きかったかその勢力が伺われる。山門は県の有形文化財に指定されているそうで、周囲には何もないので尚更その威容が引き立って見える。

10番切幡寺では、山門を抜けて少し進むと333段の石段が始まる。各石段の左側には参拝者が願掛けしたのだろう沢山の1円玉が供えられている。途中には女やくよけ坂(33段)、男やくよけ坂(42段)があり、この部分だけ私も1段ごとに願掛けの1円玉を供えた。


昨日は雨のため宿泊場所を確保することに懸命だったので、食べ物を買っておくことを忘れてしまった。朝食抜きで歩いていたところ、11時ごろ急に脱力感に襲われて大量の冷や汗が出だした。典型的な低血糖症状だ。血糖値を測ったところ72だった。前バックに入れてある固形のブドウ糖をすぐに口に入れ、朝食の足しに非常用のカンパンを10ヶほど食べた。間もなく落ち着いてきたので、次に出会う最初のお店で食べ物を買うつもりで歩き出したが、お店がない。午後1時過ぎに漸く食料・雑貨店があったのでノリ弁を買って昼食にする。


店内の一角を借りて食事をしていると女将さんがお茶とふかし芋をお接待してくれ、食後にはデザートとしてメロンを切ってくれた。メロンは6つに割って勧めてくれる。女将さんと1切れずつ食べると、更に皮を剥いて目の前に置いたので遠慮なくいただいた。途端に女将さんは残った3切れにティシュペーパーをかぶせて「奥に何人居たかな」といいながらメロンを引きあげた。 そうか、勧められたからといって無遠慮に頂いてはいけないのだな、勧められても程よいところで遠慮するのが礼儀というものなのだ。女将さん、余分に食べて済みません」と心の中で謝りつつお礼を言って店を出た。


穏やかな流れの吉野川にかかる川島橋

天気は回復して、絶好の歩き日和になる。程なく吉野川に架かる川島橋を渡る。川島橋は潜水橋で、増水時に水中に没しても欄干が ついていないので流失しにくい構造になっている。橋を渡ってすぐの高台に川島公園があり、野宿適地との情報があったので立ち寄る。急坂を登った台上に東屋が3つあり、トイレも水道も完備して理想的な野宿地だ。既に先客が1名テントを張っている。約1.5km離れた江川湧水源でも野宿ができるらしい。吉野川市は歩き遍路にとってはやさしい土地と感じた。


4時鴨湯温泉に着く。鴨湯温泉は町営の日帰り温泉で、お遍路のために温泉の隣に善根宿を置いている。宿泊料はかからない上に、温泉の入浴料もお遍路は2割引の350円になっている。お遍路仲間でも人気の宿だ。今日の宿泊者は昨晩一緒だった長崎さん、東京さん兄弟、リヤカーに荷物を載せた職業遍路さん、それに私の5名だ。女性専用の部屋もある。温泉に入った後、同温泉の自転車を借りて夕食と明朝食の買出しに行く。


お遍路に評判の温泉付き善根宿

夕食を食べていると東京さんが、温泉で老婆から1000円のお接待を受けたがどうしたらよいだろうかと、問いかけてきた。「ありがたく受け取ればよいのだろう」などと皆で話していると、地元の50歳ぐらいの男性が加わり、自分は先達(※)だと言う。先達はお遍路の大先輩だ。東京さんが参拝の仕方を質問したので一緒に説明を聞く。先達さんによれば私が買った300円の教本では不十分で、一般でいう挨拶に相当するお経などが載った600円のほうが良いという。霊山寺前の店の店員が正しいことになるが、自分としては真言宗の作法にはそれほど拘っていないので、既に買ってある教本の範囲で対応することに決める。


※ 先達について (後日会った歩き遍路の大ベテランさんの話による)

四国霊友会の公認の先達になるための条件

@  4回以上巡拝していること

A  札所の推薦があること

B  善通寺で行われる講習を受けること

先達には4段階があり、公認料の額によってその階級が決まる。先達になると団体ツァー等の説明員になれるが、そのためには観光会社に営業活動をしなければならず、実際に食える程度の収入がある先達は少ない。


善根宿、通夜堂、へんろ小屋(休憩所)には必ずメモ用のノートが置かれており、お遍路がそれぞれの思いや参考情報を書き残している。経路上の情報をあまり持っていない初回のお遍路にとってはとても参考になる。ここの善根宿にも備えられているのでじっくり読ませてもらう。民宿にもノートが備えられているかもしれないが、このお遍路の間に目にしたことはない。


参拝した札所:7番十楽寺  8番熊谷寺  9番法輪寺  10番切幡寺

歩いた距離 :25.3km (以下、7月1日までは図上距離を元に後で修正した距離)

6月20日(日)  3日目

最初の難関焼山寺へのみちしるべ

曇り、気温24度、歩くには丁度良い。6時30分鴨湯温泉を発っていよいよ最初の難関である焼山寺の山越えに入る。『1に焼山、 2にお鶴、3に太龍』とは阿波の難所を表す言葉。まず麓の藤井寺(「寺」を「てら」と読むのは88箇所でここだけ。他は全て 「じ」と読む)を打って、本堂の脇から始まる遍路道に入って登山を開始した。距離約12km標高700mの焼山寺へは、途中 大きな山を2つ上り下りしての昔の遍路道を行く。みちしるべには『健脚5時間、平均6時間、弱足8時間を要する』と書かれて いる。


登り始めて30分で端山休憩所に到着する。既に汗びっしょりで靴の中も汗で足湯状態になっている。腰にぶら下げた4本のペット ボトルでこまめに水分を補給する。高度が上がると所々に湧き水がでている。都会では湧き水を飲むことなどないが、水の綺麗な 四国では重要な飲み水になる。ただし、どこでも飲むわけではなく、ひしゃくが置いてあるところは関係者が安全と判断している ものと考えて、そこだけに限定して飲む。水は冷たく、味も良い。

   一滴の 水が命の 夏遍路  (自作)


9時20分、半分の距離にある柳水庵の、ちょうどその半分になるので名づけられたという長戸庵(ちょうどあん)に到着する。 長戸庵からは高低差100mの比較的なだらかな尾根道で、左も右も急峻な山肌が続いている。明るいうちに野宿予定地の神山町に 着きたいので少しペースを上げる。10時40分柳水庵に着く。柳水庵は、以前は老夫婦が庵を守って歩き遍路の宿所になっていたが、高齢になり今は無人になって いる。20分ほど休憩し靴の中の汗水を出し、空になったペットボトルに水を補給する。そして柳水庵の冷たくて美味しい沢水 をがぶ飲みして、ついでに白衣と下着を洗う。


淨蓮庵の大師像にほっと一息

柳水庵からは、石がむき出しになった急なでこぼこの下り道になる。足を捻挫しないように金剛杖を支えに一歩一歩慎重に進む。 暫く進むと再び急な上り坂になる。今度はかなり急な上り坂で、杖で体を押し上げながら進む。何度か立ち止まって杖に体を預けて 息を整えまた進む。背バックの重みが肩に食い込んでくるが、その度に腰ベルトの支えにバックを置きなおして肩に重さがかから ないようにする。突然目の前に30〜40段の石段が現れ、その先にお大師様の石像が見える。浄蓮庵に着いたのだ。


浄蓮庵からは再び急な下り坂になる。続く雨のため岩肌が濡れてとても滑りやすい。ここでも転ばないよう杖で体を支えながら下る。 下ればまた同じだけ登らなければならないが、下っている間だけでも汗が引いて体温が下がるのは大歓迎だ。やがて下りきったところ で左右内川(そうちがわ)を渡るとすぐに最後の登りになる。登り口に『これからが一番苦しい。頑張ろう』の看板が出ている。 ただひたすら焼山寺までジグザグの急な登り道が続く。後から考えればここからの登り道が焼山寺への遍路道で最もきつかった。


焼山寺山門

午後2時に漸く標高700mの焼山寺に到着した。6時間半かかったが、重い荷物を背負っているのでマアマアといえる。既に4本 のペットボトルは全て空になっている。洗水で両手と口をみそぎ、ついでに注ぎ口の水を何杯も頂く。焼山寺はうっそうとした林の 中にあり、庭は綺麗に手入れがされて気持ちがいい。車のお遍路もかなり下の駐車場で降りて約20分は急な坂を歩いて登らなければな らない。参拝を済ませ、遅い昼食をとっていざ出発しようとすると、向こうから今朝分かれた自転車遍路の長崎さんが歩いてくる。自転車と 歩きは速度が違うので再会することは少ないが、長崎さんとは3回目の再会になる。自転車は、登れるだけ登って道脇に荷物ととも に置いてきたという。参拝するのを待って、自転車のところまで一緒に下りる。長崎さんとは翌日の21日に15番国分寺でも行き逢い、 とても縁の深い人となった。


下り坂は膝を痛めやすいのでゆっくり慎重に歩いたため、麓の黒口に着いたのは5時になっていた。神山町まではまだ7kmもある。 緩い下り坂を急いで歩き、70分で神山町に着いた。まず道の駅「温泉の里神山」で夕食と明日の朝食を買い、売店の人に野宿のた め軒先を借りたいと申し入れたが断られた。インターネット情報では野宿できるはずだったので意外に思った。後に大ベテランの歩 き遍路に聞いたところでは、最近お遍路が酒を飲んで騒ぐという不祥事を起したため野宿ができなくなったという。そこで600m ほど離れたキャンプ場に向かったが季節はずれと雨のためか担当者が見つからない。神山ふれあい公園では野宿ができると聞いてい たが場所がよくわからない。雨が止む気配が無いので民宿に泊まることに決め、近くの民宿「明日香」に電話して素泊まりの予約を 入れる。


漸く確保した宿、まず濡れた体と荷物の整理をした。背バックはバックカバーをかけていたので中は濡れていないが、前バックは中 までびしょ濡れ、雨というよりも汗が白衣を伝ってバック内に浸み込んだのだ。おかげで財布内の運転免許証や健康保険証のコピー がにじんで判読できないし、資料や切手も濡れてしまった。対策として、資料類は全てビニール袋に入れ、更に前バック全体にもビ ニール袋を被せて汗が浸み込まないようにした。


バック修理のため針仕事をしていると指がつってどうにもならない。これまでも経験があったが脱水症状が出ているのだ。山道を1 2時間も歩き続けたが、その間にペットボトル10本に加えて大量の沢水も飲んでいる。それでも今日1日で体重が2キロも減って いる。しかも、小便は今日1日で僅か2回しか出ていない。つまり、飲んだ水以上の水分が汗で出てしまい、体の機能維持には回っ ていないことになる。脱水状態は熱中症にもつながりかねないし、脱水症状に気づいてから水を飲んでも症状の改善には4〜5時間 もかかる。今後は、1日に通常の6回程度の小便が出るまで十分な水分を摂ることにする。


マメ対策が成功している。靴の中が足湯状態になりながら、これだけ激しく歩いてもマメはできておらず違和感もない。靴の具合が よいし靴下の2枚履きが成功している。まず1枚目に婦人用の薄いすべすべした靴下を履き、その上に男物の通常の靴下を履いてい る。婦人用靴下がよじれることはないし、もし上に履いた男物の靴下がよじれても婦人用靴下が緩衝材になって、よじれが直接皮膚 に当たることはない。違和感を感じたときはすぐに小休止して靴を脱ぎ、足を乾かすようにしている。更に、歩いている間に思いつ いたのだが、足を伝って靴に入る汗を減らすため、タオルを細長く切って包帯状にしたものを膝下に巻くようにしている。


お遍路以外通ることがない焼山寺への遍路道、険しく急な山道であるがとてもよく整備されていた。へんろみち保存協力会や地域の ボランティアの方々の努力の賜物であるとつくづく感じた。何百年もの間、お遍路が歩き続けることができたのも、このような人々 が何代にもわたって山の中の遍路道を整備・維持してくれたからだ。大変な努力だと思うと感謝しても仕切れない気持ちになる。こ れまでは「四国を回る」と考えていたが、そうではなく「四国を回らせていただく」と表現したほうが正しいだろう。そうした気持 ちに変わっている。お遍路としての自分が何かできることはないだろうかと考えたが、直接お礼を言うことは難しい。そこで、しな いつもりの納経であったが、信心深いこうした人たちの拠り所になっている札所での納経を行うことに変更した。


参拝した札所:11番藤井寺  12番焼山寺

歩いた距離 :30.0km


6月21日(月)  4日目

曇り。7時半民宿明日香を発つ。鬼籠野(おむの)郵便局で、ほんの少しだが昨晩整理して余った不要品を自宅に送り返す。鮎喰川 沿いの舗装されたのどかな遍路道を進む。さわやかな風が吹き渡り、うぐいすの鳴き声が聞こえてとても気持ちがよい。広野町付近 の川原にテント持込で野宿ができる「軽井沢レジャーランド」を発見、焼山寺を過ぎた後に神山温泉を通らない別の近道を来れば ここで野宿できたのに、知らぬが仏、残念だった。


国分寺 遠くに長崎さんが見える

これからは納経した証としての朱印を受けることにするので、13番大日寺で納経帳を購入した。1番からこれまで吉野川沿いに 上流に向かって歩いてきたが、12番からは下流方向に進み再び徳島市内に近づいてくる。88箇所を打ちとおして考えてみると 焼山寺越えが最も厳しい遍路道だったと感じるが、山道が厳しければ厳しいほど市街地に近づくと里心がつくようでほっとする。 3時ごろ国分寺に着き山門を撮影しているとカメラの先に見覚えのある人がいた。なんと長崎さんだった。長崎さんは参拝が終わ った後だったので短い挨拶で分かれたが、この後は会うことはなかった。


この地域は、現在では徳島市の郊外に位置する平坦地で寺が多く、13番大日寺から17番井戸寺までは8km足らずの近い距離 なのに札所が5個もある。特に14番常楽寺と15番国分寺の間はわずか800mしか離れていないし、更に札所ではない寺も数 多くそれらの寺が隣り合っていることがある。ところが高知県では札所が80km以上離れているところがある。なぜこのように バランス悪く配置されているのか、またなぜ88個寺なのか疑問に思った。何かの機会に理由を尋ねてみよう。


久しぶりの太陽を背に受ける。

4時半過ぎに17番井戸寺に着く。井戸寺には通夜堂があると聞いているので納経所の窓口で係りの人に泊めてほしいと頼んだ ところ、住職の許可が必要との返事が返ってきた。そこで住職に会いたいと頼んだが良い返事がなく、住職の許可が必要と繰り返す のみだ。仕方ないので、近くに東屋がないか尋ねたところ善根宿を教えてくれた。この善根宿のことは知ってはいたが、この近くだ とは気づかなかった。すぐに電話をかけ了解をもらう。久し振りの太陽を背後から受けつつ田圃の中を善根宿に急ぐ。

             

   夕暮れの 鐘の音せかす 宿の道 (自作)


善根宿は、通行量の多い県道192号線沿いにある「栄タクシー」の、元の運転手控え室を転用したもの。奥様に挨拶し、洗濯機、 トイレ、シャワーの使い方の説明を受け2階に上がる。部屋は2間続きで布団も備えられている。誰もいないので荷物を置いてすぐ にシャワーを浴びる。さっぱりして2階に戻ると同宿者3名が着いている。オランダ人の恋人同士のエリックとインガと沖縄出身の 青年、それに宿主の栄タクシーの社長が加わって談笑していた。社長に挨拶し早速会話に加わる。


オランダさんは3年前にお遍路の特集番組を見て憧れ、今回のお遍路行になったそうだ。社長さんは、お遍路仲間では有名な方で、 オランダで放映されたその番組の取材も良く憶えていた。その番組は社長のインタビューを交えて善根宿に焦点を当てて作られて いたようで、オランダさんは四国のお遍路がこうした善根宿で成り立っていると思い込んでいる様子で、テントも寝袋も持たず、 しかも日本語も全く話せない。沖縄さんはお遍路3回目のベテランで、英語は話せないけどそんなオランダさんを見かねてエスコ ートしているという。オランダさんの勇気に感心するとともにテレビの影響力はすごいものだと思った。


私が少し英語を話すので、皆の仲立ちをする形で会話が弾む。エリックは大学生、インガは4歳年上で福祉施設で働いている。 エリックが面白い話をしていた。関西空港から入国した際に、入国審査では日本国内での定住地を申告しなければならないが、 お遍路は住所不定扱いになるので審査が容易に通らなかった。何度も説明して漸く通ったという。また、二人は菜食主義者で、 寿司でも魚や肉が少しでも含まれていれば手をつけようとしない。日本人が歓迎の意味でよく寿司をご馳走してくれることが、 とても困まると話していた。実はこの話を聞く前に、私もチキンナゲットを差し入れたのだが、決して食べようとはしなかった。


へんろ転がしの3つの難所のうちの1つ目の焼山寺は昨日越えた。次の難所の鶴林寺と太龍寺の越え方についてベテランの沖縄さん の助言を受ける。沖縄さんは明日の距離を伸ばして鶴林寺の麓近くの星谷運動公園まで行き、明後日に一挙に2つの難所を越える案 を提案してくれた。一方、社長は星谷運動公園より手前の19番立江寺を過ぎたあたりに寿康康寿庵(じゅこうこうじゅあん)と いう良い善根宿があると教えてくれた。この善根宿を利用すれば明後日は鶴林寺だけを越えて谷間の水井休憩所で野宿し、その次の 日に太龍寺を超えることになる。結局、どちらにするかは前もって決めずに、天候の具合、足の具合を見てその時に判断することに する。


参拝した札所:13番大日寺  14番常楽寺  15番国分寺  16番観音寺  17番井戸寺

歩いた距離 :24.0km


6月22日(火)  5日目

曇り。7時、沖縄さんに見送られて善根宿を発つ。その際、沖縄さんが「おじさんはすごいなぁー」と感心している。理由を聞く と、県道をひっきりなしに大型車が通って音と振動で眠れなかったのに私が平気でぐっすり寝ていたからだという。疲れているせい もあるだろうが、横浜で育った子供の頃は道路わきの同じような環境に家があったので、車の音や振動は気にならない。思わぬとこ ろでこうした経験が役に立ったようだ。

   生い立ちの 予期せぬおかげか 揺れる宿  (自作)


この先、徳島の市街地を抜ける賑やかな道と眉山の裏を抜ける山道の二つがある。市街地を避けて地蔵院経由の静かな山道を進んだ が、それを過ぎて再び市街地に入ると遍路道を示すみちしるべが極端に少なくなり、時々道を間違える。JR地蔵橋駅付近のコンビ ニで40歳ぐらいの男性店員に18番恩山寺への道を尋ねたがわからない。少し歩いて60歳代に見える婦人に尋ねてもやはりわか らないとの返事が返ってきた。そうか、私はお遍路のことで頭が一杯だから四国の人は誰でもお遍路に関心があると思い込んでいる が、四国の人にとってはお遍路なんて生活と関係ないただの物好きがやることなのだ。特に普段お遍路の姿をあまり見ない市街地の 人たちが知らなくて当然なのだと改めて思った。


恩山寺

車のお遍路さんと一緒に恩山寺へ

1時ごろ恩山寺手前4km付近の休憩所に入ると先客が寝ている。氏名不詳さんの手元には缶ビールがある。起してはいけないと思 いつつ、静かに荷物を下ろしていると目を覚まして話しかけてくる。年齢は60歳代後半、仕事を求めて全国を自転車で回っている が、帰る家はないとのこと。四国は何回も回っているので宿泊場所には詳しく、「立江寺を過ぎた遍路沿いに法泉寺の善根宿がある。 4〜5人は泊まれるよい宿だ」と言う。どうも昨日社長が話していた宿と同じ宿のようだ。


休憩所を出て間もなく、初めて路上でのお接待を受けた。国道55号線沿いの洋菓子店の前を通っていると配送車が駐車場に入って きて、下車した運転手が私に挨拶して店に入っていく。挨拶を返して通り過ぎると若い女性店員が走り出てきて、袋に入ったクッ キーのお接待をしてくれ、恩山寺への道を丁寧に教えてくれた。徳島県を中心に店舗を展開する洋菓子店の「ベル・ローザ」で運 転手も挨拶していたことから、恐らく会社としてお遍路に対してこうした対応をしているのだろう。「ベル・ローザ」の皆さんあ り がとうございました。


善根宿:寿康康寿庵

充実した善根宿の寿康康寿庵

立江寺から約1時間、バス停の脇にプレハブの善根宿がある。法泉寺が開いている「寿康康寿庵」で10畳ぐらいのコンクリート製 の土間に大きな机と椅子、自炊の設備もあり、コーヒーやお茶も自由に飲めるよう備えられている。奥には一段高くなって同じくら いの広さの和室があり、布団も備えられている。近くに店がないことを除けば申し分ない宿、というよりも広さや備品は民宿やホテ ル以上といえる。時間は既に4時を過ぎている。星谷運動公園までは更に7kmはあるので、今晩はここで宿を借りることにする。 結局同宿者はなく庵主も姿を見せなかったので、ひとりで広い部屋を使わせてもらった。


日中は日差しのさす良い天気でとても暑かった。今日摂取した水分量は概ねペットボトル11本分、大量の汗をかいたが小便は6回 になったので、毎日これくらいの水分量は摂るようにする。食事について、今日の食事は以下のとおりで、豆腐やおにぎりの和食タ イプか菓子パン中心の洋食タイプの食料をコンビニで買うことが多く、食堂やレストランを利用することは少ない。今日1日の食事 は


朝食:豆腐300g 茹で玉子  牛乳500cc

昼食:おにぎり2個  葉物野菜のサラダ  牛乳500cc  アイス

夕食:チキンのから揚げ  菓子パン1個


プレハブの善根宿は日中の日差しで暑さが残っていたにもかかわらず、夜中に悪寒がして目が覚める。異常に汗をかいており低血糖 症状が出たので非常食のカンパンを袋3分の1食べる。


  参拝した札所:18番恩山寺  19番立江寺

  歩いた距離 :28.8km

6月23日(水)  6日目

午前中雨 のち曇り。 今日は鶴林寺越えだけなので朝はゆっくりする。善根宿を利用したときのマナーとして少なくとも元の状態になるよう掃除する。 7時に「寿康康寿庵」を発つ。


鶴林寺の仁王門

鶴林寺の仁王門

星谷運動公園の手前で雨は止み、いよいよ旧遍路道に入る。山に入ると太龍寺を下る明日の昼まで店がないので、4食分の食料を 麓のコンビニで買う。距離は短いとはいえ焼山寺並みの厳しい坂道を覚悟して登り始めたが、前半は簡易舗装されていてとても歩き やすい。頂上手前の遍路道の脇に、距離の目印のために南北朝時代に設置されたという丁石(1丁は約109メートル)が所々に見 え、歴史を感じさせる。途中に谷などはなくほぼ登りの1本道なので、昼には標高470mの鶴林寺に到着した。


筑波山に例えてへんろ転がし3寺の難度を比較すると焼山寺は3倍、鶴林寺と太龍寺は筑波山並みだ。ちなみに、88個寺全部の中 では最高峰の雲辺寺が厳しいという人もあるが、やはり焼山寺が最も厳しいと感じた。焼山寺は12番目の札所で、お遍路を開始し て間もなくの頃だから体力に余裕があり、気持ちも新鮮だから重い荷物を背負っても1日で越えることができたが、後半にこれを登 るとなると途中で一泊しなければならないであろう。


境内にある鶴の像


    境内の鶴の像

鶴林寺はそれほど広くないが本堂、六角地蔵堂や三重塔などの伽藍や大師像、石柱などがバランスよく配置され気持ちを和ませてく れる。本堂の前には寺の名称にもなっている鶴の像が2基置かれている。参拝を済ませて昼食休憩ののち下山にかかる。下る道は、 多くの先人が踏みしめてえぐられた道や人家の庭を通るような道もあり、古い遍路道がかなり原型のままで残っているような印象を 受けた。

   石仏が 笑みで示すや へんろ道(自作)


4時前には野宿予定地の水井休憩所に着いた。那賀川に沿う道路わきの公園に東屋が建って いる。水とトイレは近くの廃校になった小学校を利用する。管理者の了解を得ようにも人影も見えないので、飲み水を補充したりベ ンチで荷物を整理していると、80歳前後と思われる古老が近づいてきて話しかけてきた。話の内容から、鶴林寺の檀家で寺の例会 にも参加しており、部落の指導的立場の人のように感じられた。


古老の話では、

この場所は20番と21番の中間にあってお遍路にとって重要な場所で、今でも春と秋の多い時期には1日に50人ぐらいのお遍路 が通る。戦後の盛んな時期には3軒の遍路宿があった。雨で那賀川が増水して3軒では足りない時は付近の農家にもお遍路が泊まっ た。この休憩所はその遍路宿の1軒があった場所で、道路を隔てた向かいの家と右隣の廃屋が他の2軒になる。


以前は部落の人口は200人ぐらいいたが、人口が減り、この休憩所から見える家の半数は廃屋になっている。子供達は町に出たが り、そこで生まれた孫たちはもう戻らない。現在は26戸65人で、女性が長生きするので26戸中の9戸が女性の独居になってい る。小学校は明治初期に創設された歴史ある学校であったが約10年前に廃校になり、生徒は転校先の学校にタクシー2台で送迎さ れている。


戦後国が苗木を配布してみかんを奨励したので、今でも徳島みかん、勝浦みかんとして有名だが、その後国は杉の植林を奨励するよ うに転じた。ところが伐採する今頃になって外国産に押されて金にならない。山林主も切れば損するので切りたがらない。今は環境 省が自然保護名目で間伐を奨励しているので、補助金の範囲で細々と間伐をする程度だ。林野庁ではなく環境省が予算を組んで山林 を維持しているような皮肉な状態になっている。


古老に札所の間隔や数について質問すると、

お遍路が大衆化したのは江戸時代に真念が貢献したと言われているが、人の動きが制限された時代にあって信仰のためとはいえお遍 路が比較的自由に動けたのは、幕府の暗黙の了解があったからだ。札所には、表向きの理由はともあれ隠れた任務として、鉱物の 探索と長宗我部の残党の監視という隠密としての役割が与えられていた。当時の運搬手段は船だったので鉱物を運搬しやすいように 多くの札所が吉野川沿いと四国周辺の海沿いに指定された。現に今は廃坑になったが、この近くにも鉱山があった。


古老の話については次のような考察もでき、一つの考え方としてとても勉強になった。

考察1:家康によって滅ぼされたあとも長宗我部の旧家臣や武力の基盤だった『一領具足』は、NHKの龍馬伝でもわかるように、 江戸末期には明治維新の原動力になるほどの隠然たる力を持っていた。当時の新しい支配勢力は旧勢力の動きに神経を使い、あらゆ る手段を使ってその動向に関心を払った。


考察2:この狭い地域に1番から17番まで17ヶ所もの札所を置いたのは、四国の東部地域や吉野川流域は京・大阪に近くて発達 していたからで、旧勢力の強い人口密集地には複数の札所を置き、旧勢力の檀家が多い寺にはそれに対抗する札所を近くに置いて密 かに監視させたとも考えられる。一方、高知県で札所が遠く離れているのはそれだけ人口が疎らだったということであろう。


考察3:鉱山に関する古老の発言は、栄タクシーの善根宿で沖縄さんが、実は鶴林寺と太龍寺を一挙に打ったほうが良いとの助言の 理由なのだが、「水井休憩所の近くに廃鉱があり、気味が悪いから野宿しないほうが良い」と言った事と符合する。また、お遍路の 最終日に土地の方から聞いた、空海を含む修験僧が鉱物探索をしていたと言う話も、古老のこの話と一致している。


ほとんど人影の見えない水井の部落ではあったが、古老の雰囲気や時折通る人が遠くからでも会釈していくことから、お遍路にはや さしい部落だと感じた。夕食は昼の残りの赤飯半分とアンパン、コロッケで済ませた。結局野宿は1人のみで、明かりもないので暗 闇の訪れとともに寝てしまったので、沖縄さんの言うような不気味さは感じなかった。


 

   参拝した札所:20番鶴林寺

 

   歩いた距離 :15.5km

6月24日(木)  7日目

5時半起床、テントをたたみ朝食を摂って周辺を掃除した後、7時ごろ水井休憩所を発つ。雲が厚く出発すると間もなく雨になった。 その後日中は降ったり止んだりの天気になった。


昔日の面影を残す遍路道

昔日の面影を残す遍路道

21番太龍寺は標高差470mで前日の鶴林寺とほぼ同じような遍路道であるが、自然を生かした形で整備がされており、昔の遍路 道の雰囲気がひしひしと感じられる。道の脇には古色然とした墓や、その横には恐らく行き倒れのお遍路と思われる素石の墓も見 られる。数百年の時を超えて当時の人たち、当時のお遍路と一体になったような厳粛な気持ちを感じた。 太龍寺を下山するには3つの方法があって、ロープウェイを使う、車用の舗装路を歩く、そして古い遍路道を進む道であり、予定では 若かりし空海が修行したといわれる舎身ヶ嶽を経由してふだらく峠を越える古い遍路道を考えていた。





捨身ヶ岳の空海像

捨身ヶ岳の空海像

納経所では、ふだらく峠から先は警察によって通行が禁止されていると説明された。しかしとにかく舎身ヶ嶽までは行ってみようと、 納経所に荷物を預けて急な坂道を1kmほど登ったが、境内、遍路道のどこにも通行禁止を知らせる立て札や張り紙がない。道も悪 くはなさそうなので戻ってバックを背負い、再び舎身ヶ嶽からふだらく峠を越える遍路道を進んだ。捨身ヶ嶽には瞑想している空海 の石仏が作られており、その背を見ながら進む。雑草や落ち葉が積もっているが雨の後でも歩くのに支障はなく、むしろ焼山寺のほうが滑りやすくよほど 危険だった。

   お遍路の 訪れ背なが 待っている (自作)


1時ごろ道の駅「わじき」に着いたが、生憎休業日のため昼食をとることができず、非常食のカンパン5ヶで代用した。3時平等寺 を打つ。寺の前の売店では買った額と同額ぐらいのお接待を受け、更に近くに善根宿があることを聞く。前もってお遍路情報で承知 していたが、ここは宿を提供する代わりに1時間程度の勤労奉仕を求められるという。興味はあるが明日以降のためにもっと前進し て弥谷観音(いやかんのん)に行くことにする。


東屋での野宿風景

東屋での野宿風景

弥谷観音は福井ダムの裏手の寂しい山の中にある。季節が良い時にはお参りの客が来るようで、 広い駐車場があり水とトイレが使え、駐車場の隅に東屋が建てられている。また近くには豊富な沢水が湧き出して滝のように流れている。早速着替えて汗で濡れた下 着や白衣などを水洗いし、東屋の柱に渡した紐で干す。テントを張ったりしていると程なく暗くなってきたので就寝した。 夜間にトイレに行くためには「マムシに注意」の立て看板の脇の草むらを通るので気味が悪い。


参拝した札所:21番太龍寺  22番平等寺

歩いた距離 :27.3km

6月25日(金)  8日目

遍路道を清掃するボランティア

遍路道を清掃するボランティア

四国に来てちょうど1週間が過ぎた。足、体調に問題はなく楽しくお遍路を続けている。


今日もいつもどうり5時半に起床、テントや荷物を片付けていると車が1台近くに止まり、中年の男性が近づいて挨拶して帰って いく。恐らくパトロールしているのだろう。警察官が主な野宿地をパトロールしていることは聞いていたが、ボランティアらしき人 がこんなに朝早くから人里離れた山の中まで見回ってくれていることには頭が下がる。山中の遍路道の維持補修、お遍路休憩所や みちしるべの設置、暖かい声援や善根宿などでのお接待、そしてこうしたパトロールのおかげで安心してお遍路ができるのだ。 お遍路沿いのゴミの散乱がひどいと聞いており、確かにそうした場所もあったが、ボランティアの方たちによる清掃が行われてい たり、車からのゴミ捨てを防ぐための駐車制限が行われているので、予期していたほど汚れてはいない印象を受けた。


23番薬王寺へは、国道55号線で丘陵地帯を行くか25号線で海岸伝いに歩くか2つの方法がある。四国は海に囲まれているが、 お遍路を始めてまだ海を見ていない。ここは迷わず変化に富む海岸沿いの道を進む。鶯の声を聞きながら25号線をのんびり歩いて 約1時間、峠の向こうに突然海が見えてきた。やっと海に出た。これ以降は飽きるほど海を見ることになるが、このときは懐かしい 海にやっと会えたような気がした。急に家が建ち込み、細くなったみちを進むと程なく由岐漁港に出る。波止めに腰掛けて船を見な がら先ほど買った甘夏を食べていると雨が降り出してくる。


雨着をつけて、くねくね曲がる25号線の海岸沿いの道を上り下りしながらひたすら歩く。内から外からずぶ濡れの状態。気温25 度、雨で涼しいのは嬉しいが雨着の内側がホッテって気持ちが悪い。ポンチョの前は少し空けて風を取り込むようにしているが、 それでも暑いので少しでも雨が小止みになればポンチョを外す。ところがポンチョが背バックに絡んでなかなか外れない。漸く外す とまた雨が強くなって被り直すことの繰り返しになる。面倒なのでポンチョを着けず、菅笠の効果だけで歩くようになる。


徳島県最後の札所、薬王寺

徳島県最後の札所、薬王寺

日和佐へは海岸沿いの旧道を進む。この地域の海岸は海亀で有名で先ごろまで放映されていたNHKのテレビ小説「ウェルかめ」の 舞台にもなっているが、どんよりした厚い雨雲では海岸を見わたす気にもならなかった。雨が止んだ1時前に徳島県最後の札所で ある23番薬王寺に着く。日和佐の町並みを抜けると道路の正面に仁王門が見えてくる。門を入ってすぐに厄除けの女坂33段、 男坂42段を上がる。厄除けの願掛けのため予め準備してきた1円玉を各段に供えながら登る。


ここ数日、野宿と善根宿が続いたので洗濯したいのに雨が止みそうにないので、今晩は民宿に泊まることに決め、程よい距離にある 内妻荘(うちづまそう)に予約を取る。内妻荘には大雨の中びしょ濡れ状態で到着した。内妻荘はコンクリート3階建ての大きな 民宿で、80歳代の老夫婦と若夫婦が経営している。かなり古く、床がきしみトイレも雨漏りする。5月は宿泊客がそこそこあった が6月は激減しており、例年夏場は客が少なくなるという。内妻荘の前には広々とした綺麗な浜が広がっているが、最近の若い家族は 海よりもレジャープールに行ってしまうそうで、折角の自然の浜が勿体ないと思う。


ご主人は食事の後にお遍路に関するいろいろな話をしてくれた。以下、印象に残ったこと。


次の宿については、この先の野根から室戸までは昔から海沿いの難所として有名で、特に佐喜浜までの20kmは人家も宿も無い。 したがって、内妻荘を発ったお遍路は難所の手前の25km付近の東洋町か、難所を越えた佐喜浜の先の45km付近に宿を取る。 希望があれば連絡してくれるとのことだったが、私は天候が許せば難所に唯一つあるゴロゴロ休憩所で野宿する計画なので断った。


本来のお遍路は托鉢をするものだといわれていたが、今では「乞食」と混同されて軽蔑されるようになってしまった。托鉢は物を貰 うのが目的ではなく、まず「同行二人」で弘法大師と一体になったお遍路が家人の幸せを祈る、その祈りに対するお礼として家人か らお布施を受けるのであって、単なる物乞いではなかったが今ではこうした考え方が変わってしまった。


札所は黙っていても納経料として年1億円の収入がある。ところが構えが立派な札所もあればみすぼらしい札所もある。それは住職 の経営手腕によるもので、中には住職の不祥事で外部の勢力に寺を奪われそうになったところもある。(この件は、後々もいろいろ なところで耳にした。)札所が安定した収入を得ているのでそれにあやかろうと、別格20ヶ寺。曼荼羅108ヶ寺などいろいろな 名目の巡礼コースが生まれている。本来寺は信者の支え、札所はお遍路の支えであるはずなのに変わってしまった。


以前、近くの峠でお遍路休憩所を10年間開いていた。その休憩所のノートの記録によれば、歩き遍路の最高年齢は91歳、その他 80歳代の人は年間数人はいた。最近ではお遍路は減っている。3月だけで一昨年は700人、昨年は200人だった。お遍路は、 景気の悪いとき、苦しい時代に現世から逃れるために多いと思われがちだが、実は昔から景気の良いときに多いようだ。最近海岸の 旧遍路沿いの塚(身元不明者などを埋葬したもの。身元が判明している場合は「墓」という)を掘ったところ大衆文化の華が咲いた 元禄時代のものが多かった。最近お遍路が減っているのも不景気が影響しているのかもしれない。


札所に関する例の質問をしたところ次のような回答だった。

88という札所の数については諸説あって信憑性は定かではないが、その昔インドでお釈迦様が説法する際に、夏は涼しい土地に 冬は暖かい土地に移動した。比較的頻度高く行った場所が88ヶ所あったことから、日本でも8は縁起のいい数字なので、それに あやかったのではないか。しかしこれは後付けの理由で本当のところはわからない。

参拝した札所:23番薬王寺

 

歩いた距離 :42.0km


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