人生の余り道 (歩くを楽しむ)

香川県

概要

期間7月21日(水)〜7月26日(月)6日間
距離198キロ1日平均33.0キロ
気候
  • 晴天が続く。全国的に猛暑のようで、昼夜ともにこれまでとは比較にならない猛烈な暑さだ。それだけに山中や昔の遍路道の日陰は気持ちが良い。
状況
  • 食欲は衰えず、マメもできず体調に問題はない。市街地が多くなって地元の方と触れ合う機会が増え、一見無関心に見えるもののこれまでとは違った優しさを感じる。

県内リンク

34日目

35日目

36日目

37日目

38日目

39日目


香川県

7月21日(水)  34日目

静かな遍路道

静かで涼しい参道

晴れ。5時40分「バス宿」を発つ。6時30分雲辺寺の登山口に到着する。登り2時間半といわれており、かなり急な坂だ。しかし、登りの一本道で、12番焼山寺のように登ったり下ったりがない。順調に歩いて8時10分には雲辺寺に到着した。1時間40分で登ったことになる。これからの行動にかなり時間の余裕が生まれた。ところが、山門の直前で急に空腹感と脱力感を感じる。低血糖の症状だが、まだ冷や汗は出ていない。朝食はカロリーメイト1箱だけだったので少なかったのだろう。納経を済ませた後にお接待で頂いたおにぎりを2つ食べる。残りの2つは昼食用に残しておく。


仁王門

雲辺寺の仁王門


雲辺寺はとても大きな寺で、境内も広く、建物、庭などがよく手入れされている。雑草も見当たらず、トイレには生花が飾ってある。木々の間から夏の強い日差しが漏れてくるが、標高900メートルもあるためとても涼しく感じる。納経の際の若い僧侶の対応も気持ちがよく、五百羅漢像を見ていくよう勧めてくれる。頂上までケーブルカーも設置されているが、歩き用の遍路道を下る。坂道は登りよりも下りのほうが足に負担がかかって危ない。ゆっくり下りる。



古い遍路道

昔の面影を残す遍路道

この遍路道は何百年の長きにわたってお遍路が通ってきたので大きくえぐられており、道の脇には、みちしるべやたくさんのお地蔵様が置かれている。昔の人と同じ道を通っているのかと思うと感慨ひとしおであった。

石仏に 安堵をもらう 遍路道 (自作)


足の音、杖の音に驚いて、2センチほどの小さな羽虫が舞い上がり、体の周囲を飛び交い、私が進むにつれて羽虫集団も体にまとわりながら追いかけてくる。まるで白い雲と一緒に坂を下りているようで、宮崎駿のアニメの主人公になったような幻想的で夢見心地がした。


10分ぐらいそんな状態が続いただろうか、下を向いている目の先をベンチがよぎった。休憩しようかとベンチに目を移したその時雨で土が流されて剥き出しになった小砂利に足をとられて転んだ。倒れる寸前金剛杖で支えようとしたが、そのまま下り坂を前のめりに落ちた。「ウッ」息ができない。どこか痛みはないだろうかと、しばらくそのままの姿勢を保つ。どうも左膝を打ったようだ。膝が痙攣している。痙攣が治まるまでじっとしている。そのほかには痛いところはないようだ。良かった、お遍路を中断しなくて済む。少し休憩した後に、左の膝をかばいつつこれまで以上にゆっくりと下りた。結局、登りとほぼ同じの1時間30分かかった。


68番神恵院(じんねいん)と69番観音寺は同じ場所にあり、同じ納経所で朱印を受ける。恐らく住職夫人であろう中年の品のよいご婦人が、私の前の娘さんが出した納経帳について、目印にはさんだ紙の位置が違うと注意すると、娘さんは次の寺の位置に挟んだと応じる。ご婦人は、それでは意味がないと重ねるが、娘さんは譲らない。何度か同じ応酬を繰り返している。後ろの私がいらいらしていると、ご婦人もいらいらしたらしく「挟むなら細い紙の方がよい。幅が広いとページをめくりにくい、と皆さんおっしゃってますよ。私はどちらでもいいけど!」と言って論争を打ち切った。次いで私の番になり、納経帳を差し出しながらご婦人の手を見ると、豪華なリストバンド、大きなダイヤ(らしい)の指輪で飾り立てている。 私は「お布施を受ける納経所では、派手な装飾類は避けたほうがいい、と皆さんおっしゃってますよ。私はどちらでもいいけど」と口に出かかったが、言わなかった。


今日は早めに着いて休養しようと、3時半には着けるように観音寺市内に宿をとることにする。事前の情報はないので、名前から判断して古い旅館らしい「一富士旅館」に予約を取る。旅館は思ったとおりの昭和初期のような小さな古い旅館であった。70歳代半ばのご夫婦がやっている。来る途中、市内に「大平正芳記念館」があったので話題にすると、観音寺は故大平元総理の出身地で、最初に立候補した時の選挙事務所がこの旅館だった、との説明があった。


駅前の老舗旅館であるが、宿帳を見たら7月は私が2人目の宿泊客。経営は大変なのだろうな、と思った。勿論人手もないのであろう、夕食のおかずは仕出しを取り寄せたものだ。困ったことに洗濯機が備えられていない。夕食後のまだ暑い中、15分ぐらい離れたコインランドリーを教えてもらって出かける。ところがその場所が正確ではなくて、見つけ出すのにとても時間がかかってしまう。洗濯、乾燥の間は待たなければいけないので、結局8時過ぎまでかかり、ゆっくり休養するどころではなかった。


   

札   所:66番雲辺寺  67番大興寺  68番神恵院  69番観音寺

   

移動距離:35.0km

      

7月22日(木)  35日目

四国の道の標識

遍路道と大部分が重なる「四国の道」

晴れ。7時「一富士旅館」を発つ。70番本山寺までは財田川の堤防上を行く。行き逢った人は7名、挨拶するが返ってきたのは1名のみ、それも軽くあごを引いただけで言葉はなかった。これまでは道案内や挨拶についてとても気持ちのよいお接待を受けることが多かった。今日も朝の爽快な気分で挨拶したのだが、とてもがっかりした。しかし、まあ、こんなものだろう。今までが恵まれすぎていたのだ。自分自身は頭の中がお遍路で一杯になっているが、地元の人にとっては毎日のことだから。


本山寺五重塔

本山寺五重塔

本山寺は奥に長い比較的大きな寺で、本堂は鎌倉時代に建造されたもので国宝に指定された堂々たる寺である。五重塔も美しく樹木も庭も綺麗に整備されており、とても気持ちがいい。四国88ヶ寺のうち五重塔があるのは善通寺、志度寺など僅か4寺のみであり、本山寺はそのうちの一つである。


納経所で、住職夫人らしい上品なご婦人に「奥行きの深いとても立派なお寺ですね。これまでこのように長方形になっているお寺は見ませんでした。」などと話しかけると、「他のお寺の事は知りません」との答えが返ってきた。そうか、札所の人はお遍路をしないのだな。だから他の寺のことはわからないのだな。それにしてもいつものことで毎回不快に思うが、こちらを見て少しぐらい笑みを浮かべて話してもよいのに。堂々とした美しい寺だけに残念な気がした。


善通寺西院の仁王門

善通寺西院の仁王門

今晩の宿所の善通寺市内に入る。74番甲山寺からは狭い道の、昔懐かしい商店街を抜けて75番善通寺に出る。善通寺は四国霊場の中で最大の規模を誇り、東の本堂と西の御影堂とに別れその間を道路が走って市民が普通に通れるようになっている。日差しの強い時間帯ではあったが、境内の大木が心地よい日陰を提供し、近くの人が三々五々涼をとっている。厳粛なお寺というよりも生活感の漂う、柔らかい感じの雰囲気が気持ちがよい。

  

二千年 繁る葉かざす 日影かな   (自作)


寺の正面の道路は拡幅工事中で、立ち退きになった家屋も多いもようで、いずれ様変わりした近代的な姿になってしまうのだろう。自分勝手だが、四国には少しでも昔の日本の姿が残っていて欲しい。時の流れとはいえ、惜しい気もする。その工事中の道をJR善通寺駅方向に進み、4時ごろ善通寺ステーションホテルに着いた。早い時間の到着だったので家族湯を独占するかたちで入浴することができ、のんびりと疲れを癒すことができた。


   

札   所:70番本山寺 71番弥谷寺 72番曼荼羅 73番出釈迦寺         74番甲山寺 75番善通寺

   

移動距離:31.6km

     

7月23日(金)  36日目

満濃池

空海が改修した満濃池

晴れ。6時15分「ステーションホテル」を発つ。今日はお遍路から離れてゆっくり時間を過ごす予定で、空海が指揮して改修したといわれている満濃池と讃岐のこんぴらさんをお参りする。JR土讃線で善通寺から2つ目の汐入駅に行き満濃池に向かう。この付近は自然も水も綺麗で、池の近くのほたる見公園ではほたるが見られることで有名だ。最初の計画ではほたる見公園にテントを張って、ほたるに囲まれて一夜を過ごす予定だったが、テントを送り返してしまったのでそれは諦めた。


金毘羅宮

金毘羅宮の本宮前

今日の金刀比羅宮は、有名な観光地としては客が少なかった。世相を反映してか若い女性のグループは韓国人か中国人が目立った。以前はお遍路は必ずといっていいくらいこんぴらさんをお参りしたそうだが、現在は少なくなっている。上り口から本宮まで785段もの階段を登らなければならないが、山登りに慣れたお遍路にはたいした苦労ではない。本宮に着いたのは10時半、讃岐平野を望みつつ自宅に記念の電話を掛けた。


琴平駅で時間待ちしていると、作務衣を着た年配の女性が話しかけてくる。この近くにある羽床大師堂の庵主さんで、車で四国を80回以上回ったそうだ。「四国の人にしては珍しいですね」と言うと「そうだね。四国の人は、お遍路するのは他国の人だと思っているからね。」と返事があった。庵主さんが「お遍路して何かご利益はありましたか」と問うので「自分では良く分かりません」と答えたところ、「ニコニコと笑顔でいられること自体が御利益なんですよ」と褒めて(?)くれた。


善通寺に戻ってお遍路を再開する。暑い盛りの3時ごろ、77番道隆寺で参拝を済ませて納経所に入るや否や「暑い中、よぉーお参りされましたね。37度もありますよ。冷たい水もあるので水筒にも詰めてゆっくり休んでください。」と、住職夫人らしき方から声がかかる。初めてだ。お寺でこんなに温かい言葉をかけてもらえてとても嬉しかった。


丸亀城

丸亀城遠望

約7キロ先の78番郷隆寺に向かう。丸亀市内に入り、久し振りに都会の雰囲気を味わう。市内を見下ろす小高い丘の上に築かれた丸亀城が、目抜き通り越しに良く見える。足早に過ぎて5時少し前に郷隆寺を打つ。納経所の前で、これまで何度かすれ違っていた中年の男性遍路にまた会ったが、いかにも疲労困憊の様子なので大丈夫か声を掛けた。名古屋の方で、本人も体がきついらしく話を切り上げてすぐに予約してある民宿に向かった。


5時20分、善根宿「うたんぐら」に着く。「うたんぐら」は東洋大師の通夜堂のノートに『良い宿』と書かれていた善根宿だ。宿主である入江さんの自宅の座敷に招かれ冷たいお茶で歓迎される。入江さんご夫妻は、ご主人の退職を機に善根宿を開きたいと情報を求めていたところ縁あってこの家が見つかり、大阪から移り住んで今年2月に善根宿を開いた。お遍路用には別棟の2棟が準備され男女別々に10名ぐらいまでは宿泊できる。


奥様はお遍路13回のベテランで、その際に受けた恩に報いたいとの気持ちが善根宿を開く動機になっている。部屋には既に綺麗な布団とシーツで床が延べられており、洗濯機は自由に使える。風呂は町の支援で建てられたそうで、時間を区切って町の人も使用する。費用は、朝食代500円とシーツの洗濯代100円のみ。夕食は提供しない。マスコミ関係の仕事をしている家主が、母屋に併設して巡礼文化を伝承するNPO法人のコミュニティ施設を開いている。


洗濯、風呂を済ませて同宿者であるお遍路大ベテランの坂口さんと共に、入江さんご夫妻と座敷で懇談する。見ず知らずの者にとても誠実に対応してくれ、静かな話しぶりだがとても楽しくてつい時間を忘れて話し込んでしまった。お遍路にとっては1晩だけの時間だが、入江さんにとってはほぼ毎日のこと、生半可な気持ちでできることではない。開設の2月から4月までは宿泊者は少なかったが、次第に周知されて5月以降は毎月50人以上の宿泊者がある。私は217人目だそうだ。最近はマスコミにもよく登場するようで、それが入江さんの楽しみになっている。しかし一方では評判になるにつれ、洗濯が溜まるとやってくるお遍路や、まだ1周していない短期間にまたやってくるお遍路があって対応に悩んでいるようだ。


坂口さんは、私と同じ66歳。歩き遍路50回以上の大ベテランで、千葉県出身でもう6年以上自宅には帰っていない。なぜお遍路を続けるのか尋ねると、最初は納得できない何かがあって回っていたが、今では沿道に支援者が多くできて止めることができなくなっている。しかし、50回のときに潮時だから止めたら、という意見が出て支援者は半減した。費用の3分の2は支援者から得ているが、本人の貯えも残り少なくなり食事を切り詰める状態になっているので、いずれ今後のことを決めなければならないと考えている。


話題の中での印象的なこと


○ 札所が乱れている最大の理由は世襲制であること。ただし寺院はみな世襲制のもよう。


○ 参拝者は88ヶ所全部の朱印を揃えたいと思っているので、どんな札所でも必ず参拝する。札所にとっては自動的に収入が約束され、『企業努力』を怠ることに繋がる。高野山も年1回視察者を出しているが、事前に予告しているので改善には繋がらない。


  

注:確かに、札所と札所ではない寺院が隣接している場合、札所でない寺院の方は伽藍は立派で墓も多くて整備・清掃がよくされているのに対し、札所のほうはとてもみすぼらしいといったことが度々あった。収入が確保された寺とそうでない寺の、数百年にわたる『企業努力』の差が表れているのであろう。


    

札   所:76金倉寺  77番道隆寺  78番郷照寺

    

移動距離:32.5km

      

7月24日(土)  37日目

大ベテランさん

  50回以上回った坂口さん

晴れ。朝からとても暑い。7時、高級旅館に匹敵するような品数の多い豪華な食事をいただく。お昼のお接待付で、山の中に入る今日の行程ではとても助かる。7時40分、大ベテランの坂口さんと一緒に「うたんぐら」を出る。坂口さんは地図に載っていない道や休憩所をよくご存知だ。既に太陽がジリジリと照りつけ、20kgの荷物を背負っている坂口さんは汗だく、歩き始めて間もないが瀬戸高速道路の下の休憩所で昼寝をするとのことで別れる。


本日中に80番台の札所になる。明後日には最後の大窪寺に着くと思うと、1ヶ月余のこれまでのお遍路がとても短く感じられ、あと数日で終わってしまうのが嘘のようだ。一方、何となく気が急いて先に先に進もうとする気持ちもあり、できれば本日中に山の中の3つの寺を済ませてその先に行きたいと思っていたが、坂口さんから、最終段階だからこそ急がずに安全に行ったほうがよいと忠告があり、今日の目標を山の手前の80番国分寺にした。しかし、体調もすこぶるよいので快調に進み、9時半には79番天皇寺に着いた。このままでは昼ごろには目的地に着いてしまうので、やはり80番から82番までの3つの寺を今日中に打つことにする。


根来寺

根来寺仁王門を内側から見る

長い坂が続く80番を後回しにして、急ではあるが坂道が短いほうの81番白峰寺に先に行く。白峰寺から山深くの82番根香寺(ねごろじ)へは昔のままの鬱蒼とした雑木林の中の薄暗い遍路道を行く。遍路道にはみちしるべや行き倒れたお遍路の石柱がたくさん置かれている。この遍路道と根香寺には怖い話がたくさん言い伝えられており、いわば心霊スポットのようになっている。ただし、今日は天気のよい昼間に通ったので一向にそうした気配は感じなかった。根来寺は、仁王門を入ると階段を下って境内に入るような凹凸の激しいところにあった。


お地蔵様

  手入れされたお地蔵様

もう一つの80番国分寺に行くには、今来た遍路道を半分ぐらい打ち戻ることになるが、その途中で昨日郷照寺で会った名古屋さんに偶然行き逢った。今日の名古屋さんは随分元気が回復しているように見え、「こんな山の中で----」と驚きながらしばし雑談した。国分寺への下りの遍路道もかなり急だ。順番どおり80番から81番に行くとすればこの遍路道を逆に登ることになる。大変な遍路行で、逆打ちが正解だと思った。


4時少し前に国分寺に着いた。国分寺周辺には宿が取れなかったので、次の83番一宮寺付近まで進むことにした。宿所の天然温泉「きらら」までは更に12km、3時間弱はかかる。国道12号線をただひたすら歩いた。相変わらず暑さで汗びっしょりだが、今晩は温泉に泊まるのでリラックスできると思うと気が楽だ。「きらら」には6時半に着き、温泉とは別むねの宿泊施設に案内された。マンションタイプの部屋で、1DKだがかなり余裕がある造りで収納式のベッドもついている。深夜まで営業している温泉は何度入っても自由、とはいっても1度入れば十分で、体と気分をほぐすことができた。


   

札   所:79番天王寺  81番白峰寺  82番根香寺  80番国分寺

   

移動距離:40.0km 

    

7月25日(日)  38日目

晴れ。7時に天然温泉きららを発ち、すぐ近くの83番一宮寺に向かう。今日は日曜日、境内には近所のお年寄りが大勢集まっており、社交場になっている。本堂、太子堂を気軽にお参りし、納経もお賽銭もなしで帰る。若いカップルも散歩がてら通るし、運動着姿の女子高校生が何人も通って挨拶をしてくれる。一宮寺が市民生活に溶け込んでいるような、市民が一宮寺に何の違和感を持っていないような印象を受けて気持ちがよかった。


9時には高松市内に入る。栗林公園もあるし買い物もしたいので半日ぐらい見物・休養をしようかと考えていたが、リュックを背負ったままの行動は億劫なので、そのまま先に進む。残りの時間で歩ける距離に民宿・旅館が固まってある。その中で、インターネットで料理が絶品との書き込みがある「栄荘」に電話すると、丁寧な反応があり、予約が取れた。


屋島寺

広く整然とした屋島寺

国道11号線を進むと左手のずっと先に頂上が台形になった半島が見える。屋島半島であろう。11時登り口に着く。最初の部分は23度以上もの急な登り勾配になっているが、その先は傾斜も緩くなり簡易舗装されて歩きやすい。日曜日で天気のよい午前中のこと、付近の人達が標高284mの頂上まで散歩している。屋島寺境内はとても広く、よく整備されている。宝物殿には源平の合戦に関する遺物も展示されており、歴史に興味ある人は十分に楽しめる。




檀ノ浦遠望

埋め立てられた檀ノ浦を望む

屋島寺からの下り坂はとても急で、ロープを伝って下りるところもある。屋島寺と85番八栗寺との間の入江は源平の合戦で有名な檀ノ浦だ。写真の正面が合戦があったところで、義経が平家を奇襲するため、ここを馬で下ったと伝えられているが、とても信じられない。屋島は、名の通り当時は島であったものが埋め立てられて陸続きになり、檀ノ浦も住宅地に変わっている。屋島を下りて道路沿いに進むと道路わきに、当時の戦にまつわる多くの記念碑が見られて、時の流れ、地形の変化に驚かされる。




八栗寺

八栗寺は岩山の向こう側

対岸の八栗寺が位置する山の麓に、この地域では有名な「山田うどん本店」がある。昼時に立ち寄ったら満員状態でとても繁盛している。冷やしうどんは600円と安く美味しかった。店のすぐ先に八栗寺へのロープウェイがあり、その下が遍路道になっている。八栗寺を打ったあと隣の茶屋で冷たいものを飲むと、亭主が「この暑い時期に歩くなんて、よほど体力に自信があるんだね」と話しかけてきて、ソフトクリームを半額にしてくれたうえにお茶のペットボトルをお接待してくれた。


4時ごろ栄荘に着く。風呂を出ると偶然そこに名古屋さんがいた。顔には先日の疲労感は見られず、とても元気な様子だ。大部屋で皆一緒に夕食、元気を回復した名古屋さんは「お遍路なのにすいませんが」といって大好きなビールを飲む。暫くすると、「お遍路さんから連絡があったから」と言って女将が2席分の食事の準備を始める。一般的には民宿は2時か3時以降に申し込む客は素泊まりになり、食事は準備しない。親切な宿だなァと思っていると、少し後に更に2名のお遍路が到着する。お遍路が少ないこの時期に6名のお遍路があるのは、とても流行っている民宿といえる。


名古屋さんになぜ栄荘にしたか聞くと、やはりインターネットの評判を目にしてのことだという。先ほど女将に、「インターネットで評判がいいですね」と話しかけると、十分に承知をしている風でニコと笑った。お遍路は"いちげん"の客である場合が多いので、インターネットの情報はかなり参考にしている。よい接遇をすればインターネットを通じて客が勝手に宣伝してくれる。ポイントをついた宣伝方法だと思う。一方、インターネットで評価が落ちると客が寄り付かないことになる。


   

札   所:83番一宮寺  84番屋島寺  85番八栗寺

   

移動距離:30.2km

 

7月26日(月)  39日目

志度寺五重塔

志度寺の五重塔

晴れ。昨日の夕食も今日の朝食も豪華で、客の中には「うわッすごい。食べられるかな」との声があがるほどで、評判どおりである。


納経開始時刻に合わせて「栄荘」を発ち、7時に志度寺に着く。仁王門前の立て看板によれば、本堂、仁王門など5つの国の重要文化財、多数の県の文化財がある古刹であるが、中に一歩入って雑然とした雰囲気にがっかりする。庭木も手入れされていない。ローソクや線香を立てるところも昨日のままでとても汚れている。文化財の多い立派な寺なのに残念に思いつつ参拝を済ませて納経所に行く。若い下着姿の坊さんから朱印をもらって「ありがとうございました」と言って納経所を出ようとすると、若い僧侶は既にパソコンに釘付け、顔も上げず挨拶の返事もない。


県道3号線の角を曲がって遍路道に入ると、少し先を名古屋さんが歩いている。私自身は歩くのは早いほうだと思っていたが、名古屋さんの身軽さには敵わない。最初会った時には疲労困憊の状態だったので体力のあまりない人かと思っていたが、ぜんぜん違うようだ。休憩所で一緒になったときに聞いてみたら今日で36日目だという。私が39日目、とんでもない、体力的にはとても敵わない。人は見かけによらないものだと思った。


大窪寺遠望

大窪寺は正面の山の頂上付近

あと2寺を残すのみになり、道で会う人もそれを十分に承知した上で挨拶してくる。どなたであっても挨拶を交わせることは嬉しいことだが、特に若い女性から声を掛けられると嬉しさが倍加する。道路の反対側の若いご婦人から「まだ先が長いですから、気をつけて行ってらっしゃい」と声を掛けられたり、古い農家の前では涼んでいた老人から「奥に椅子があるから休んでいけ。水があるぞ井戸だから冷たくて美味しいぞ」とねぎらいの言葉がある。

老い遍路 暑さに負けじと 畦を行く (自作)


87番長尾寺を打っていよいよ最後の大窪寺に向かう。12時ごろ「前山おへんろ交流サロン」に着いて、歩き遍路の証明書をもらう。交流サロンは遍路資料展示館も併設されているのでバスや車のお遍路も立ち寄るが、証明書は歩き遍路だけに出される。毎年7月1日から新たな番号を付けており、私の証明書は123番になっているので、ほぼ7月1ヶ月でこの人数になる。証明書の数は年間3000件ぐらい、月平均では約250名になるので、やはり夏場は少ないようだ。


大窪寺を打ったあとはバスでJR志度駅に戻って徳島駅に出る予定だが、大窪寺からのバスは3時51分が最終になる。女体山越えではバスに間に合わない可能性があるので旧遍路道を進むことにする。約12kmで3時間弱の行程になる。あまり時間の余裕がないので昼食をとらずに歩き始める。とに角バスには間に合わせなければならない。


大窪寺仁王門

漸く見えた大窪寺仁王門

旧遍路道は急な坂の上り下りの繰り返し、何度丘を越えただろう、漸く県道377号線と別れて最後の遍路道に入る。あと2.3kmの標識。だらだら坂を上っていくとあと0.7kmとある。次第に急になる坂を、「1歩、2歩」と声を出しつつ登る。まだなのか、もう着くはずと思いつつ350を数えたとき坂の向こうに突然屋根の瓦が見えた。着いた! 遂にやった。2時40分大窪寺に着いた。人影はまばらだったが、車お遍路の男性から「歩いたの、すごいなぁー」と声を掛けられた。大窪寺には結願したお遍路が残していった金剛杖が保管されており、寺によりまとめて焼却される。しかし、私の金剛杖は手作りなので正に『分身』の気持ち、記念に持って帰ることにする。


境内の休憩所で遅い昼食を済ませた後、寺の前の売店で重荷にならない程度のお土産を買う。汗だくだけど甘いものが欲しかったので季節はずれの甘酒を注文した。するとお遍路用品を買っていた中年の男性が、「甘酒はお接待するので体験談を話して欲しい」と話しかけてきた。徳島県の人だが、定年を機会に9月頃からお遍路に出るので参考にしたいとのこと。一通り話が終わった後、「四国の人はお遍路をしないそうなのになぜ?」 と尋ねると、「札所の好ましくない状況は十分に承知しているが、そうした現状を前提に歩くことが返って修行になる」という。私も、古き良きお遍路文化は是非後世に伝えて欲しいので、四国の人のお遍路にエールを贈った。


「志度駅までバスで降りる」と言うと、「結願したのだからもしよければ徳島寄りの三本松駅まで車で送る」と言ってくれたので有難く受けた。車中で例の質問をすると、札所が鉱山探索の密命を持っていたことについて、次のように話してくれた。


○ 当時の修験僧が持っていた金剛杖の先端には金属の輪がついているが、似た形状のものが現在でも金属探査具にある。だから修験僧が金属探査の役割を持っていたとしても不思議ではない。


○ 空海は唐に渡り20年の留学予定を独断で2年間で打ち切って、膨大な経典と参考文献をもって帰国したが、その購入費用はどうしたのか。唐における空海の行動で4ヶ月ぐらい不明な期間があるので、その時山に入って鉱物探査をしていたのではないか、そして偶然その探査が成功し資金を得たので経典類を持ち帰ることができた、との推測もできる。


鶴林寺の檀家である古老の話と符合する、興味ある見解だ。


4時ごろ三本松駅に着く。徳島さんにお礼を言って別れる。結願したら遍路装束を脱いで一般の服装になるのが例と聞いているので、待合室で人目を避けながら汗で濡れた下着を替え、白衣をスポーツシャツに着替える。4時41分発の特急うずしおで徳島に向かう。往路の夜行バスでは体が動かせなくてきつかったので、できればフェリーでゆっくり帰るつもりだったが、フェリーは2日に1便で明日の昼の出港しかない。


これ幸いと徳島市内を散策することにしてまず宿を確保しようと探したが、大小のホテルも小さな民宿も全て満員。8月12日の阿波踊りまではまだ2週間以上あるのに街のそこここにお囃子が流れ、何となく騒めいて浮かれた様子。仕方なく酷暑の中の野宿を覚悟したが、幸運にもキャンセル待ちで最終の夜行バスが取れて、22時30分徳島を発って帰宅の途についた。

   

札   所:86番志度寺  87番長尾寺  88番大窪寺

   

移動距離:28.9km

  
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