人生の余り道 (歩くを楽しむ)

高知県

(無心に歩く)に進む     (世界を巡る女性)に進む

概要

期間6月26日(土)〜7月9日(金)14日間
距離515キロ1日平均36.8キロ
状況
  • 前半は雨が多く、後半は晴れる日が多くなる。
    朝・夕:約27度  雨でも28度〜30度  晴れの舗装路では最高45度
  • ひたすら歩く日が続いたが、強い太陽も思っていたほど暑くは感じず、足の強さ、体の強さに驚きながら歩きを楽しんだ。 お遍路を取り巻く自然がますます豊かになるに従い、自然と一体になって「素」の自分に戻っていくような気持ちになる。
    地元の方々はつかず離れず、それでいて必要な時には積極的にお接待してくれる暖かさが感じられた。

県内リンク

9日目

10日目

11日目

12日目

13日目

14日目

15日目

16日目

17日目

18日目

19日目

20日目

21日目

22日目


6月26日(土)  9日目

7時、強く降る雨のなか内妻荘を発つ。1日中強い雨。歩き始めて約2時間、ますます雨が強くなってきたので雨宿りのため喫茶店に入る。店主は私と同年齢のご婦人で「今日は雨で客が来ないかと思った」と喜んでくれ、コーヒーの注文に対してモーニングセットを出してくれて、料金の差額はお接待、更に、綺麗な布袋に入った旅行セットとお菓子もお接待してくれた。この旅行セットには歩くときの蛍光標識、裁縫セット、バンドエイドやマメ治療薬などが入っており、後々とても役に立った。


横殴りの強い雨の中をただひたすら国道55号線を歩く。雨の強さに応じてポンチョを脱いだり着けたりを繰り返すが相変わらず厄介だ。すると前を行く歩き遍路が背バックに大きなビニールを吊り下げたまま歩いているのに気づいた。よく見るとポンチョを外すのが面倒なので頭部のみを外してバックに掛けたままにしている。見た目は悪いが楽なので私も真似をした。


車が横を通ると跳ねた溜まり水がもろに体全体にかかる。前から来る車なら菅笠を傾けたりしゃがんだりして避けるが、タイミングを失したり、下を見ていて気がつかない時には下から跳ね上がる泥水が顔までかかる。センターライン側に寄ってよけてくれる車や速度を落とす車もあるが、歩行者に気づかないはずはないのにそのままのスピードで走り抜ける車が多い。この付近は車幅が狭くて歩道の区別がない。また雨で視界が遮られるので危なくて仕方ない。


今日はいよいよ徳島県を抜けて高知県に入る。2時ごろ、県境付近に差し掛かった時ガソリンスタンドの兄さんが「野根の先は全面通行止めになっているよ」と声を掛けてくれた。佐喜浜では1時間当たり46ミリの集中豪雨が降ったという。さて困った、どうしようか。全面通行止めでは人も通れない。近くの民宿で通行止めが解除されるまで待とうかとも考えたが、行けるところまで行って少しでも正確な状況を確認することにした。野宿予定場所のゴロゴロ休憩所には行けないが、手前の野根町には行ける。そして野根町には明徳寺(東洋大師)がある。お遍路がいたとしても恐らく手前の民宿を利用するので、東洋大師の通夜堂なら利用できるかもしれない。もし泊まれない場合には30分ほど戻って民宿に泊まればいい。


東洋大師の全景

東洋大師

東洋大師は88の札所には含まれていないが、礼儀として納経した上で住職に通夜堂に泊めてもらいたいと頼んだところ、了解が得られた。通夜堂は小さな境内の片隅にあり、8畳大ぐらいのプレハブで小さな土間とゴザ敷きの板の間があるだけの部屋。布団はない。シャワー、洗濯機、乾燥機などは住職が使用しているのを貸してもらえる。今晩の宿泊者は1名のみであったが、通行止めのような場合には本堂も開放して宿泊させているという。


大正時代までは野根から室戸岬まで道路がなかったので、お遍路は海岸伝いに歩いていたが、天候が悪い時には回復するまで寺が宿を提供していたそうで、東洋大師にはこうした伝統が現在も残っている。お遍路が最も困るのが寝る場所、昔の札所はこのように本堂や庫裡(くり:僧侶の居住区)にお遍路を泊めていたが、今ではこうした習慣も廃れてしまい、いくつかの札所で通夜堂を提供しているだけになっている。


住職は、故あって出家して修行をつんでいた約10年前に、恩師の紹介で明徳寺(東洋大師)の住職に就いたという。現在の制度では寺院は原則として世襲制であり血縁のない者は住職にはなれないが、もし住職不在の寺ができれば、恩師・先輩が教え子・後輩を紹介して住職に就ける場合があるという。しかしこうした寺は経営が苦しいものが多く、地方では廃れていく寺が多いという。東洋大師は正面には日章旗が掲げられ、住職は丸坊主のいかつい外見から怖そうな印象を受けるが、話してみればとても優しそうでさっぱりした感じの人だった。朝夕のお勤めの読経は周囲に響き渡り、例え冬でも滝行を欠かさないことで評判だ。札所が偏在している例の件を質問したが、特段の回答はなかった。


  

参拝した札所:なし

  

歩いた距離 :33.6km

6月27日(日)  10日目

5時半に起床して荷物をまとめていると、6時から住職のお勤めが始まったので見学する。住職からは、通行止めが解除されるまで通夜堂を使用してよいとの話があり、雨が小止みになってはいるものの、まだ通行止めが解けていない状況ではとても嬉しかった。その後、7時に町内放送で通行解除になったことを知り、住職にお礼を述べて東洋大師を発つ。


元気なアメリカ青年

行動力のあるアメリカ青年

約1時間で野宿予定場所だったゴロゴロ休憩所に着く。東屋があるが周囲には壁がないので、昨晩のような横殴りの雨では海風が直接当たってテントを張るのは無理だろう。その東屋には、サイクリング姿の小柄な白人の青年が休憩していた。英語で話しかけると、アメリカ人でカルフォルニア大学の学生、夏季休暇を利用して約1ヶ月の予定で農家の手伝いをしながら旅行をしているという。日本語は「ありがとう」「わかりません」など5つ程度しかわからない。四国の次には京都に行く予定だそうで、先日のオランダさんと同じように行動力のある若者だ。


いよいよ「ゴロゴロ岩」「飛び石」「跳ね石」などといわれた難所にさしかかる。現在は国道55号線として素晴らしい道路が整備されているが、それでも夏の時期は暑さと単調な道はお遍路泣かせであることには変わりはない。幸か不幸か今日は雨で涼しいので歩くには大して苦労はない。しかし、大正以前の道のない頃、お遍路がこの岩場を歩いて渡ったとなると想像を絶する苦労だったろう。当然海が荒れれば進むことはできない。野根の宿泊所で一夜を明かし、潮の干満を見ながらの危険な遍路行を強いられたという。


佐喜浜から先は国道55号線の幅が狭くて歩道がないので、堤防上が遍路道になっている。見晴らしもよく歩きやすい。堤防を過ぎて暫く歩くと急に遠浅の綺麗な海岸が見え、大勢のサーファーが波乗りを楽しんでいる。55号線を挟んで反対側に民宿がある。かつてはお遍路宿として栄えた「ロッジおざき」で、内妻荘からゴロゴロの難所を一挙に越えた場合にはここが宿になる。歩き遍路が減った現在ではサーファーの若者を相手に海の家を開いている。大勢のサーファーで賑わう中をお遍路姿で歩いていくと、若者たちが不思議なものを見るようにジロジロ見る。まるで江戸時代人の私が、タイムスリップして現代に迷い込んきたように思っているのだろう。


道路標識

目的地までまだ17キロもある。

<無心に歩く>

12時30分、高知へ100キロ、室戸岬へ17キロの標識を過ぎる。23番の薬王寺から24番の最御崎寺(ほつみさきじ)まで約80kmもあり3日かかる。一昨日の昼に薬王寺を出て国道55号線をひたすら歩き続けているが、まだ着かない。歩いている最中はラジオを聴かないし音楽も聴かない。目に見えるものを追いつつ、何を考えるのでもなく、1歩1歩足を前に出してただ歩くだけ。『この機会に自分を見つめ直す』といった哲学的な考えなど全く浮かばない。だからといって『退屈』という文字は当たらない。普段の暮らしの中でこれだけ頭を空っぽにしている機会はないであろう。お遍路とは、歩くときはただひたすら歩く。場所がどこであれ今ある場所で一所懸命に歩けばよい。


では実際に『何も考えない』とはどんな状態なのだろうか。実は、何も頭に浮かばないのではなく、常に何かが頭を通り過ぎている。『この道は歩きにくいな』『あの家は人が棲んでいるのだろうか』『道は間違っていないだろうな』などと目に見えるものに対する反応が次々と頭をよぎる。自販機でもあれば振り返って穴の開くほど凝視する。しかし、将来どうしようかとか過去を思い出して後悔するとか、そんな面倒なことは頭には浮かばない。何かを筋道立てて考えることはあまりない。最も頭の中を占めていた事柄は、歩きにくい歩道のこととそんな状態を放置している関係機関に対する不満や、水が飲みたい、道を間違えていないかなどだった。(手を合わせる)に戻る


1番霊山寺から今日で10日目、昨日で徳島県を歩ききった。幸いマメができていない。多くのお遍路がマメに泣かされることを思えば、意外と強い足に自分でも驚いている。しかし足や膝が痛くなることはある。そんな時は歩度を緩めたり歩幅を狭めて5分か10分歩けば痛さは消えていく。1日に30kmも40kmも歩くことが何の苦痛にも感じなくなっている。歩くことが息をすることと同じように極めて当然の生理的な動作のように感じる。これが『ウォーキング・ハイ』といわれる高揚した感覚なのかな、と思う。

       

 マメ無縁 意外な強さに 自信湧く  (自作)


御蔵洞

荘厳な雰囲気の御蔵洞

4時過ぎに御蔵洞(みくろどう)に着く。御蔵洞は四国霊場の中でも重要な場所で、若き空海がここで修行している時に、明けの明星からの光が体を貫いて悟りを開いたと言い伝えられている。当時は海が眼前に迫っていて洞内の暗さの向こうには海と空しか見えなかったという。それが「空海」と名乗ることに繋がる。今では観光地化されているのでそうした面影はあまり感じられないが、ここで1夜を過ごせばまた違う印象を持ったかもしれない。


4時30分、予想より早く最御崎寺(ほつみさきじ)の登山口に着く。最御崎寺は明日お参りすれば良いと思っていたが、ここに着てみると俄然欲が湧いてくる。寺は165mの山の上にあり遍路道で700mある。30分以内で登れるだろうか。とに角やってみようと思い、登り始める。急な石段を20分で登りきり、汗だくのまま納経所に駆けつけると係りは帰り支度をしている。私には目を向けることもなく、「先に納経して」と言う。太子堂の納経を済ませて、納経所の前の本堂で参拝していると、老母を同伴する男性が横に立って同じく参拝を始める。「納経所が閉まるから先にそちらに行ったほうがいいですよ」と話しかけたが、男性は読経を続けている。すると5時になったのか、当然私達の姿を認めているのにもかかわらず、係が大きな音を立てて雨戸を閉め始めた。件の男性は驚いて納経所に駆け寄り、大声で係りと納経の交渉を始めた。


話には聞いていたが、5時には納経所を閉じるという冷酷な場面に立ち会うことになった。離れていて参拝者がいることが分からなければ仕方ないことだが、目の前にいるのだから別の対応があってもよいと思う。


室戸岬の標識

室戸岬の標識

山を下りて麓の登山口に着いたときは6時を過ぎていた。岬の売店は既に閉まっている。佐喜浜の店で食糧を買い忘れていたので夕食も明日の朝食もない。残り少なくなった非常食のカンパンで食いつなぐしかない。さて次は野宿の場所を探さなければならない。民宿を予約していればこうした心配はない。野宿には時間に煩わされず、自分で場所を選ぶ自由があるが、その代償として寝場所を探すという苦労がある。岬の先端は公園になっていて野宿の候補地はいくつかあるが、国立公園なので遠慮し、結局忠霊塔の脇にテントを張った。



参拝した札所:24番最御崎寺

歩いた距離 :45.6km

6月28日(月)  11日目

室戸岬の先端

室戸岬の先端

曇りのち晴れ。室戸岬先端の波が打ち寄せる岩場の近くでカンパン朝食をとる。貧しい食事ではあるが、室戸岬にたどり着いたかと思うと感慨ひとしおである。今日はとても体調がよく、約15キロの荷物も今までで最も軽く感じる。約6kmを1時間で歩いて室戸市内に入る。最初に見つけたコンビニで朝食を買おうと店に入ったところ、突然奥のレジから「たくさん女を泣かせたね」と挨拶が飛んできた。見ると中年の元気はつらつの女性。意表を突かれ「そんなことないですよ、女房まっしぐらですよ」と、陳腐な答えが精一杯だった。店先のベンチを借りてゆっくり朝食を摂りなおした。


25番津照寺(しんしょうじ)と26番金剛頂寺を打って道の駅「キラメッセ室戸」で昼食を食べようとしたが、生憎休業日だ。昨日から食事にはついてない。しかし、久し振りに晴れ間が出たので、車がいない駐車場を利用して濡れた持ち物を一杯に広げて乾かし、靴下を脱いで足もゆっくりと乾燥させた。


4時ごろ奈半利町に入る。奈半利右岸公園など野宿場所の多い町であるが、急に黒雲が湧き出し空模様が怪しくなってきたので宿をとることにする。公園に隣接する二十三士温泉はお遍路がお風呂をよく利用してインターネットでも評判の温泉なので、予約を入れる。4時を過ぎていたのに暖かい電話応対があり、部屋が取れた。温泉も無味無臭のとても気持ちのよいもので評判どおりであった。何よりも嬉しかったのはパンフレットでは1泊8085円となっているのが、お遍路は6500円で通常の民宿並みに割り引いてくれることだ。しかも、翌日は昼食のおにぎりがお接待で出された。


自宅を出る時には必要な荷物を持って出たが、糖尿病治療に必要なインスリン、血糖値計測部品、お賽銭用の小銭などほぼ消費量が一定のものは、途中で何度かに分けて追送してもらうことにしている。その第一回目の追送の時期、送り先について7月1日に高知市内の民宿「高知屋」に決める。その際に、紛失した万歩計、靴下の補充などについてもリストに加えて連絡した。


  

参拝した札所:25番津照寺  26番金剛頂寺

     

歩いた距離 :36.5km

  

6月29日(火)  12日目

晴れ。7時、二十三士温泉を発つ。

神峰寺を望む

神峰寺を遠望する。

今日の難関は23番神峯寺(こうのみねじ)で、海岸通りから標高430mまでほぼ一直線に参道が走っているので「真ッ縦」の異名がついている土佐の関所だ。同じ道を往復するので、ゆるい坂からいよいよ急な坂にかかるところにあった無人の農機具倉庫に背バックを置いて身軽になって登る。途中で急な坂道をサイクリング車を押して登る青年に逢った。新潟の人で、ゆうに100キロはありそうな幕下クラスの体格をしている。自転車をわき道に置いて登る方法もあるが、本人にとっては下りのほうが膝に負担がかかるので、どんなに苦労しても自転車を押し上げたほうが後が楽で体にも良いという。健闘を祈りつつ先に進む。


神峰寺の山門

神峰寺の山門

傾斜度30度以上の急な坂もあるが、覚悟していたほどではなく比較的楽に感じた。頂上少し手前の最も急な部分で、あえぎながら空ろな目で立ちつくす女性のお遍路がいる。声を掛けたところ会釈が返ってきたので大丈夫だと思いそのまま進む。寺の境内には湧き水が滔々と流れ出て滝のようになり「神峯の名水」と名づけられている。ひしゃくが置いてあるので安心して何杯も飲んだ。冷たくてとても美味しかった。


山を下り始めると新潟さんが自転車を押し上げながら上がってくる。先ほどの女性遍路も山門付近まで登ってきている。背バックを残置した農機具倉庫の少し上にベンチが置いてあり、地元の老人が3人談笑している。その1人から「疲れきった顔をしているぞ、休んでいけ」と声を掛けられたので3人の仲間入りした。老人によると1ヶ月ほど前にお遍路がマムシに咬まれた。咬まれた青年はそれがマムシだとは知らずにそのまま登り、参拝しているときに気を失って倒れたので、救助のためヘリが出動したという。この付近の「マムシに注意」の立て札が新しいので不思議に思っていたが、納得した。老人たちにお礼を言ってその場を発つと新潟さんが自転車で軽快に追い抜いていった。


真ッ縦を下りたところで休憩しようと唐浜駅の真新しい待合所に入ると新潟さんが休憩している。彼は観光会社に勤めていたが、会社から要求されることがお客様の要望にあっていないのではないかとの悩みを持ち、限界を感じて退職を申し出たが、慰留されて3ヶ月の休暇処置になっている。約1時間、仕事や人生などについて話し合ったのち、新潟さんは自転車で発ってゆく。


海岸沿いに作られたサイクルロードを、景色を見ながらのんびり歩き、昼頃、安芸市を通過する。国道から10キロぐらい奥に入ったところに、現在NHKで放映中の「龍馬伝」に登場する、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の生家がある。話は横道にそれるが、テレビでは弥太郎が手内職の竹籠を背負って高知城下に売りに来たり、龍馬の幼馴染の加尾が弥太郎が開いている私塾に通う場面が描かれているが、実際には安芸の弥太郎の家から城下までは40キロ以上離れている。当時の男でも1日がかりの距離、まして和服姿の女性が通えるはずもない。新しい視点を打ち出すとの番組の狙いはよいが、物理的な事実はきちんと守ったほうが良い。オランダさんの例でもわかるように、テレビの影響力は大きく、視聴者はそれが事実だと思ってしまうので。


午後から雨が強くなる。疲れがたまっているのかしきりに欠伸が出て足が進まない。体がふらつくと危険なので、赤野の休憩所で休む。濡れねずみのまま10分ほどうたた寝をしたらスッキリした。暫く歩いた後に琴ヶ浜の海浜公園で野宿することに決め、コンビニで2食分の食料を買って公園に向かう。公園の東屋は、これまでの公園の東屋と同じように、柱とテーブルと椅子でテントを張りにくいように配置してある。しかし、私のテントは1人用で幅が80センチでとても狭くできているので、どうにか隙間に張ることができる。夕闇が迫っているので急いでテントを張った。


  

参拝した札所:27番神峯寺

  

歩いた距離 :42.0km

6月30日(水)  13日目

曇り。6時30分琴ヶ浜公園を発ち、土佐くろしお鉄道に沿う静かな遍路道を進む。この鉄道は多くが無人駅で夜10時から翌朝6時までは鉄道が通らないので、駅や待合室で野宿ができる。程なく香南市の市街地に入る。7月11日の参院選の投票日に向けて街宣活動が活発に行われている。この商店街ではある候補者が各商店を訪問していたが、随伴していた応援車の中に自民党の中谷元議員を見つけたので挨拶した。それにしても香南市に限らず旧道沿いの商店や小さな工場の閉じたままのシャッターがとても目に付く。場所によっては開いている店がほとんど見当たらないこともあり、地方の疲弊を実感した。


28番大日寺、29番国分寺を打って本日の野宿予定地である蒲原のヘンロ小屋に着いた。この小屋は隣接する会社が開設しているもので、電気も通っており、水やトイレは会社を利用できるので申し分ない野宿環境だと考えていた。ところが、今日は人家の少ない田圃や畑道が多かったので、ヘンロ地図を頼りにヘンロ小屋の約500m手前のお店で食糧を買うつもりでいたが、廃業したようで店は閉じていた。近くには店がない。


実は、昼食も最後の残りのカンパン5個のみであった。昼も夜もそして明日の朝も満足に食事が取れないのは厳しいので、この小屋での野宿は諦めて先に進むことにした。約1キロ先に一の宮墓地公園があるがやはり店がない。更に進み、結局5時少し前に市街地に入ったところの30番善楽寺に着く。食糧を買うことができるし、インターネット情報では境内で野宿できるように書かれていたので納経所で申し入れると、今は野宿を許可していないとの返事だった。善楽寺より先は高知の市街地に近くなるので野宿は難しくなる。宿をとることに決め、納経所で紹介してもらう。ホテル「土佐路たかす」に予約を入れ、更に1時間ほど歩く。


  

参拝した札所:28番大日寺  29番国分寺  30番善楽寺

  

歩いた距離 :44.6km

7月1日(木)  14日目

7時、ホテル「たかす」で貰った要図を頼りに近道を31番竹林寺に向かう。急坂の遍路道を登って牧野富太郎記念館に出ると清掃のおばさんと行き逢う。暫く立ち話をしていると藪蚊がうるさくつきまとう。遍路道の薮蚊はしつこく、歩いていても容赦なく襲ってくる。この時も私の顔のまわりを飛び交う蚊を見かねて、おばさんが追い払うのを手伝ってくれる。

     

大群の 蚊に迎えられ 老い遍路   (自作)


次の牧野植物園を経てお遍路用の裏道から竹林寺に入る。竹林寺の境内は広く、樹木や庭の手入れが行き届いて整然としており、朝の静けさの中いかにも荘厳で心が洗われるような雰囲気であった。寺からの下り遍路道はグリ石が敷き詰められて時代を感じさせるものであったが、表面に苔が生えてとても滑りやすくなっている。注意はしていたが、転倒し腕をすりむく。


渡し船

県営の渡し船の内部

32番禅師峰寺(ぜんじぶじ)の途中に、土佐勤皇党を率いた武市半平太の墓があるのでお参りするつもりであったが、分起点を見失ってしまった。禅師峰寺は海辺に屹立する小山の頂上にあり、あえぎあえぎ登る。次の札所33番雪渓寺には、浦戸大橋を徒歩で行く方法と渡し船を使う方法がある。松崎と長浜の間には県営の無料の渡し船があって、この経路は県道278号線に含まれている。昔からお遍路がこの渡し船を利用しても歩き遍路として扱われている。 約10分で対岸の長浜に着く。10名ほどの利用者があった。


桂浜

とても小さな桂浜

33番雪渓寺を打つ。今日の宿所である民宿「高知屋」は雪渓寺の門前にあり、3時前に着いた。女将は面倒見のよいことで知られ、マスコミにもよく登場する。まだ時間も早いので女将の助言を受けて龍馬記念館と桂浜を見ることにし、自転車で出かける。有名な桂浜は抱いていたイメージほど雄大ではなく、幅400m奥行き100mもない小さな浜で、龍馬が砂浜を走りぬけるテレビの場面は一体どのように撮影したのか不思議なほどであった。しかも、観光客は桂浜に比べれば巨大すぎる駐車場とみやげ物店を通らなければ浜に出られないという、商売臭プンプンの雰囲気には驚いた。


龍馬記念館では家族・知人に出すための絵はがきを買う。この先こんなゆっくりした時間は得られないと思い、夕食までの時間に絵はがきを書いた。その内に自宅からの荷物が届き一安心。お遍路の同宿者は1名、東京都青梅市の安藤さん。お遍路を始めて間もなく足全体にマメを作ってしまい、一旦東京に戻って治療した上で再度の挑戦という。マメはまだ完治していないので歩く姿が痛々しい。そこで私のマメ予防策を話し、今日届いた婦人用の靴下を1足提供した。安藤さんのお遍路に取り組む姿勢はとても真摯で、事前に十分研究された上で、更に五来重著の「四国遍路の寺」などの本を携行して復習しながら回っている。私のお遍路は『道』に重きを置いているのに対して、青梅さんはかなり『寺』にも重きを置いているといえる。


  

参拝した札所:31番竹林寺  32番禅師峰寺  33番雪渓寺

  

歩いた距離 :21.6km

7月2日(金)  15日目

高知屋にて

高知屋にて

晴れ。朝食は6時から、食堂で安藤さんと一緒に頂く。食事の間は女将が付きっ切りで給仕をしつつお遍路についていろいろと話をしてくれる。最近転倒して大怪我をしたそうで、今でも膝がまがらないという。6時40分女将に送られて高知屋を発つ。昨晩女将から、暑い時期は早発ちして涼しいうちに距離を稼いだほうが良いとアドバイスを受けた。安藤さんは忠実に守って既に発ったが、私はいつもの習慣で遅くなってしまった。安藤さんとは今日1日抜きつ抜かれつの状態になった。


新川川で休憩していると、犬の散歩中のご婦人と娘さんが話しかけてきて暫し雑談になった。見ず知らずの間柄だが、『お遍路』であることがきっかけでこうして気軽に会話できるのが嬉しい。仁淀川の堤防上を歩いていると、前から歩いてくるご婦人が道を避けたので、邪魔しないように私も反対側に寄って通り過ぎようとすると声を掛けてくる。見ると「お接待です。頑張ってください。」と言いながら500円硬貨を差し出している。初めてのお金のお接待だ。話には聞いていたが、現実にこうしたお接待があるなんて信じられない気持ちだ。35番清滝寺を打ち終わって坂を下ってくると、前方から来た軽自動車が横で止まり「お接待です」と言って米菓子を差し出している。歩き遍路に対する地元の皆さんの暖かさが伝わってくる。


3時ごろ約30km歩いて宇佐大橋につく。橋下に今日の野宿予定地である公園が見える。東屋やトイレなどが見えるが先客はいないもよう。明日の経路は次の3つ

・浦の内湾を挟んで南側の横波スカイラインを通る

・北側の湾沿いの昔からの遍路道を通る

・湾そのものを連絡船で縦断する


今後は船のお遍路道はないので連絡船を利用することにしている。ところで、これから行く36番青龍寺は、宿泊予定の公園から見て乗船口とは反対の方向にある。明日のためには青龍寺を先に打って乗船場所の近くのこの公園に戻ってきておいたほうが良い。一方、野宿のためには雨が降る前の早めに準備をしておいたほうが良い。問題は、青龍寺を打って宇佐大橋に戻るまで天気が持つかどうかだが、微妙なところ。 曇ってはいるがまだ雨は降ってはいない、もう暫くは持ちそうな気がした。そこで先に青龍寺を打つことにする。


奥ノ院

断崖絶壁に建つ奥ノ院

ところが半ばを過ぎたあたりから予想に反して雨が降り出した。次第に強くなる。青龍寺についた頃にはびしょ濡れになってしまったので野宿を諦め、近くの国民宿舎「土佐」に泊まることにし、予約を入れる。そうと決まれば急ぐことはないので青龍寺の奥の院である不動堂に行くことにする。奥の院は断崖絶壁の上にあり、多くの修験者が祈りを捧げた場所で、こちらこそが青龍寺の原型といわれている。雨の中、古い獣道のような急坂を登って不動堂を打つ。


国民宿舎「土佐」は、経営難のため民間人の手に渡って以降再建に成功した例として評価が高い国民宿舎で、お遍路用の共同部屋を設けてあるので1泊2500円で泊まることができる。私が到着した時は他に同宿者はいなかったが、7時ごろ岡山の青年が加わった。岡山(1)さんとは数日前にある休憩所で言葉を交わしたことがある。お遍路に詳しく、野宿適地や善根宿に関してたくさんの情報をもらった。


参拝した札所:34番種間寺  35番清滝寺  36番青龍寺

歩いた距離 :34.5km

 

7月3日(土)  16日目

明徳義塾高校

明徳義塾高校を望む

雨のち曇り。6時30分、国民宿舎「土佐」を発つ。山を下りたところに明徳義塾高校がある。元横綱の朝青龍の母校であり、日本名の朝青龍明徳は青龍寺と高校名にあやかって命名された。朝青龍のほか女子ゴルフの横峰さくらやサッカーの三都主アレサントロなどが知られている。同校は高校野球でも活躍しており、今年も甲子園に出場している。そういえば昨日青龍寺を打った際に、運動部の指導者らしいジャージ姿の女性2名と行き逢った。何かの運動部の試合の必勝祈願だったのかもしれない。学校はとても辺鄙な場所にあるので全寮制をとっているが、それが運動や勉強に集中できる環境になっているのかもしれない。


7時40分、乗船場所である埋立待合所に着く。8時19分の出港には十分間に合うと思っていたところ、あれ? 待合所の扉に鍵がかかっている。扉に貼られた時刻表を確認すると第1便は7時5分に出ており、次の便は10時5分になっている。時刻表には「往路」と「復路」の項目にそれぞれの時刻が示されている。インターネットで確認した時には、これから出掛けてゆく身として迷うことなく「往路」の時刻を見たのだが、実際は到着地である横波から見てこちらに向かうのが往路で、ここから出るのが復路に位置づけされている。地元の人にはわかっても他所の者には分かりにくい表現だと思う。


さてどうするか。着地の横波までは船で1時間かかるので11時過ぎには到着する。一方、歩けば11km、3時間弱かかり更に朝食の時間を入れれば船より遅くなる。ここは慌てず予定(?)どおり船で行くことにする。連絡船には同乗者はなく、しかも途中の寄港地でも全く客の姿が見えなかったので船長が素通りしてくれ、結局620円の船賃で連絡船1隻を借り切った形になった。ラッキー!


4時ごろ、野宿予定地の道の駅「かわうその里すさき」に着く。道の駅の横を流れる新荘川の河原で野宿場所を探すが、東屋が見つからない。遊歩道上の橋の下で雨が当たらない場所にする。遊歩道は川面よりも大分高くなっているので多少の雨でも大丈夫だと考えた。それにしても『橋の下で寝る』とは得がたい体験で、ちょっとロマンチック(?)な感じもする。明かりもないので夕闇とともに就寝する。


激しい雨の音で目が覚めた。9時だ。寝てからまだ2時間ぐらいしか経っていない。すぐに川を確認すると多少増水している。上流で集中豪雨があると危険なので場所を変えることにし、闇のなか懐中電灯を頼りにテントをたたみ道の駅に上がる。既に人影もないので軒先を借りてテントを張りなおす。横になって間もなく急激な空腹感と大量の汗が噴き出す。典型的な低血糖症状だ。すぐに固形のブドウ糖とジュースを飲むと10分ぐらいで落ち着き、眠りにつく。


  

参拝した札所:なし

  

歩いた距離 :21.0km

 

7月4日(日) 17日目

朝3時ごろ、荷物搬入車に起されテントをたたむ。運転手から「私も仕事なので、すみません」との言葉をかけられ恐縮する。夜が明けると早速家内から安否確認の電話が入る。心配かけたことを謝る。


6時、道の駅を発つ。国道56号線を歩いていると6月28日に別れた自転車の新潟さんが追いつく。あれ?自転車だから当然先に進んでいるはずなのに。話を聞くと、休職中の会社から連絡が入り、急用で3日間京都に行っていたという。


安和を過ぎ焼坂にかかる。旧遍路道は滑りやすくなっていると思い、インターネットでは狭くて危険と書かれている焼坂トンネルを進む。特に歩道はなく、約50センチの側溝の蓋の上を歩くことになるが、網状の蓋は滑りやすくゴミが溜まって歩きにくいところが多い。中央線側に寄ってくれる車もあるが、対向車がある時には大型車が肩すれすれを疾走していく。風圧で飛ばされそうになる。幸いなことに通行量が少ないので、車が脇を通る際には立ち止まり、菅笠を抑えて壁側に寄ってやり過ごすようにした。


焼坂トンネルの竣工は昭和44年。全般に言えることだが、昭和に建設された道路やトンネルは歩行者に対する配慮はほとんどない。歩道があっても本来の歩道ではなく、ほとんどが側溝の上を歩くようになっている。経済優先の時代を反映しているのだろう。道路は車に危険が及ばないように建設基準に基づいて一定の半径が決められているが、山の傾斜は斉一ではないため山の形状によっては余積が道路の左だったり右だったりする。歩道はその余積を利用して造られているので、左や右に寸断されて交互に移動する形になっている。歩行者はその度に車道を渡らなければならない。何と危険なことか。


焼坂トンネルを抜けたところで休憩していると偶然安藤さんが追いついてきた。足の調子は良いようだ。安藤さんの提案で情報交換のため携帯のCメールができるようにしたかったが、どのような訳かわからないが受信のみとなった。次は七子峠越え、青梅さんは県道を私は国道を進んだが、峠の茶屋で一緒になる。身の上話など話に花が咲き約1時間の大休止になった。いざ発とうとすると、車で到着した若夫婦のご婦人から声を掛けられた。一昨日青龍寺で逢ったとのこと。確かに、山門ですれ違ったご夫婦に違いない。「歩き遍路を見ると頭が下がる思いがします。」との話があり、私が重い荷物を背負って雨の中を歩いていたので印象に残ったようだ。


(世界を巡る女性)

3時、今日の野宿場所の道の駅「あぐり窪川」に着く。この道の駅はとても広く施設も整っている。テントを張れる場所がいくつもある。東屋を占領して荷物の整理をしていると、突然強い雨が降り出して、吹き込む雨で広げた荷物が濡れ始めた。広い屋根のついた自販機がある休憩所に移ってふと見ると、隣の軒下に小柄な若い女性の自転車遍路が雨宿りしている。どうも一人旅のようだ。話しかけてみると、京都の人で自転車による野宿日本一周の途中で、東京を振り出しに北海道、日本海側、九州そして四国、この後東京に戻れば一周が完結する。その後は世界めぐりに出る予定だという。本を出す準備なのか尋ねると、そのつもりはないとの返事。女の一人旅で親は心配していないか、などという野暮な質問はしなかったが、本人はそれなりの警戒心は持っているようで、さすがに世界めぐりでは野宿はしないといっていた。外国人ばかりではなく、日本の若い人にも覇気のある人はいるものだ。(印度放浪)に戻る


  

参拝した札所:なし

  

歩いた距離 :30.6km

  

7月5日(月)  18日目

雨は止んだが厚い雲が垂れ下がる。6時50分、道の駅あぐり窪川を発つ。 次の札所37番岩本寺へは約2km、30分足らずの行程である。

みちしるべ

お遍路のガイド「みちしるべ」

進路を維持するためにはへんろ地図を見ることもあるが、実際は道路脇の「みちしるべ」を頼りに歩いているほうが多い。みちしるべは、へんろみち保存協力会が地域のボランティアの協力を得てガードレールや道路標識にシールを貼ったり、樹木に吊り下げたりしてある。殆どのへんろ道はみちしるべを見て歩けば問題ないが、市街地や新設道路では曲がり角のような重要な所に貼られていないことがある。個人の住宅で了解が得られないことがあるだろうし、道路工事が頻繁で作業が追いつかないこともあろう。


岩本寺は、窪川の市街地で国道56号線から一歩中に入ったところにある。みちしるべに注意しながら歩いたのだが、一向に見つからない。ふと気がつくと既に1時間が経ち、かなり行過ぎてしまっている。"注意している"つもりでも実際は惰性で歩いていたのだろう。このまま次の札所に行ってしまおうかとも考えたが、折角納経することに決めたのだからと思い直し、逆戻りして岩本寺を打った。予定より1時間半も遅れてしまった。

迷い路に 光さずかる みちしるべ (自作)


熊井トンネル

レンガ造りの熊井トンネル

伊与喜駅で国道と別れて遍路道に入る。集落を抜けて山道にさしかかるとすぐにレンガ造りの小さなトンネルが現れる。「熊井トンネル」と言い小型車1台がようやく通れるくらいの小さなトンネルだ。明治39年に竣工して昭和14年までは県道として使われていたが、今では近傍の人がわずかに通る程度。建設時には小学生などが1個1銭の駄賃でレンガを運んだという、長さ90mのレトロで温かみのあるトンネルだ。


次の部落を抜けてまた山道にさしかかるとご婦人が息せきって追いかけてくる。"お接待かな"と思わず笑みを浮かべつつ振り返る と「あのー、お遍路さんでしょ? この道は違いますよ。山に入って行き止まりですよ。」とのこと。先ほどの不純な心を押し隠 しつつお礼を言って元来た道を戻る。先ほど間違った分岐点に戻るまでの約10分間に、車2台と徒歩の方2名が「この道違うよ」 「すぐ気がついてよかったね。」などと話しかけてくる。頂上まで登って引き返してくることに比べればこれほど有難いお接待はな いだろう。それにしても見ず知らずのお遍路にこれだけ多くの人が心配して声掛けしてくれたことが嬉しかった。反面、人影も見え ない閑散とした部落だと思っていたのが、これだけ多くの人が関心を持って見ていたとも言え、驚きだった。無事国道に出てすぐのコンビニ「スリーエフ」で昼食を買うと店員さんがお茶のペットボトルをお接待してくれた。コンビニのすぐ横のバス停にいたご婦人が「暑いけど頑張って!」と声を掛けてくれた。中角部落の皆さん、本当にありがとう。


4時過ぎに本日の宿泊地「土佐西南大規模公園」に着いた。四万十川に近くキャンプ場、イベント施設やサーファー用施設を備えたとても大きな公園だ。汗だくの体を洗うため有料シャワーを見つけたが、キャンプ場から1.5kmも離れている。折角シャワーを浴びてもキャンプ場に移動する間にまた汗だくになってしまうのでどうしようかと迷っていると、通りかかった初老の男性が「広いからどこで野宿しても大丈夫だよ」と嬉しい声援をくれたので、シャワー近くにテントを張ることにした。ところがシャワーを浴びている間にカラスに夕飯のパンを盗られ、またその場所が蟻の通り道だったため夜中に蟻の攻撃に悩まされるなど、散々な目にあった。


  

参拝した札所:37番岩本寺

  

歩いた距離 :45.5km

  

7月6日(火)  19日目

お遍路を始めて以来の素晴らしい天気。心地よい波の音を聞きながら、蟻の攻撃を除けば気持ちよい朝を迎えた。5時起床。片付けを済ませて朝食をとろうと浜辺に出ると既に数人のサーファーが波乗りを楽しんでいる。広い浜辺で男性が棒で何かを拾い集めているので、近くにいた地元の青年に「早朝からのゴミ拾い、大変ですね」と声をかけると、「サーファーや海鳥からの被害を避けるため海亀の卵を集めて、保護された小屋に移している。」と話してくれた。


ここ数日、手がパンパンに腫れて、腕時計のバンドが切れてしまうかと思われるほどになっている。毎日ペットボトル10本以上も飲んで大汗をかいているので塩分不足になっているのではと考えて、食塩を買って昨日はトマトに振り掛けて食べた。その成果か、今日は体調がとても良く、手もそれほど腫れていないし重い荷物もさほど負担には感じない。しかし、肩が擦り剥けて汗でしみるが、翌日に残るほどの凝りが無いので助かる。


四万十川

四万十川を渡る

9時30分、四万十大橋を渡る。清流で名高い四万十川!!

予期していたほどの川幅はないが、折からの梅雨の影響だろう満々と水をたたえて流れている。源流では川水をそのまま飲むこともできるし、清流がゆえにトンボのヤゴ、鮎やうなぎなどの川の幸が豊富とも聞いていたが、残念ながらかなり濁っていて川底も見えなかった。いつか時を得たら、四万十の清流を求めて源流まで歩いてみたいと思った。


四万十川支流

四万十川に注ぐ小さな川で泳ぐ

四万十大橋を渡って321号線を3キロほど行き、小さな川沿いの遍路道に入る。川の水がとても綺麗だ。これまでも綺麗な川や掘割を見るたびに水浴びの誘惑に駆られているが、幸いここは殆ど人が通らない。思い切って土手に下りてパンツ1枚になり清流に浸かった。水は冷たすぎずとても心地よかった。しばし童心に返って楽しんだ。川から上がって歩き始めて30分もしない内に再び汗まみれになったが、したいと思っていた水浴びができたので気持ちは晴れ晴れとしている。


321号線の坂道を登ると新伊豆田トンネルに差し掛かる。昔は足摺に至る最大の難所であったが、現在は平成6年竣工の全長1620mのトンネルに代わっており、しかも平成のトンネルらしく約1.2m幅の歩道が設けられているのでとても歩きやすい。トンネルを出て間もなく真念庵に到着する。37番岩本寺から次の足摺岬の38番金剛福寺まで約80km、金剛福寺から次の39番延光寺までは打ち戻って約50kmも離れている、お遍路泣かせの難所である。四国遍路の大衆化に貢献した僧真念は、1680年代前半に3寺のほぼ中間に位置するこの地に善根宿のお堂を造ってお遍路の難渋を救った。お遍路はこのお堂(真念庵)に荷物を置いて金剛福寺を打ち戻ることができるようになった。


真念庵を過ぎ下ノ加江川沿いに進むとスリーエフがある。ベンチが備えられているので休憩しようと近づくと既に2人のお遍路が休憩している。ひとりは7月2日の種間寺以来度々すれ違っていた岡山の人。岡山(2)さんは30代で独立して事業を営んでいたが、昨年息子さんに譲って今は自由を楽しんでいる。今回は7月9日までの区切り打ちだという。もうひとりは歩き遍路3回、逆打ち(※)のベテランさん。ベテランさんから情報を貰ううちに、たまたま私が今晩泊まる予定の民宿「星空」について、「民宿らしい民宿だよ」というアドバイスがあり、岡山(2)さんも同宿することになった。


※ 1番→2番のように番号の若い寺から時計回りに回るのが「順打ち」、その逆の反時計回りに回るのが「逆打ち」という。みちしるべは順打ちのお遍路が見やすいように設置されているので逆打ちは回りにくく、実際にお遍路の数は少ない。


ところで、コンビニはお遍路にとってとても大切な役割を持っている。田舎道を除きコンビニはどこにもあって、食料、水、日用雑貨など当面必要なものは何でも手に入るし金融機関も利用できる。また「ゴミ持ち帰り」が常識の昨今、ゴミを持ち帰ることのできないお遍路にとってゴミを捨てられる唯一の場所になっている。したがって、購入した食料は努めてその場所で食べて、ゴミはそのコンビニで捨てることにしている。ところがベンチを置いているコンビニはとても少なく、大手のローソンやファミリーマートはベンチを置いていない。しかし、高知県に多いスリーエフは「お遍路さん休憩してください」との看板を掲げてベンチを2脚置いている。食事やお遍路同志の懇談にとても便利だ。だから付近にいくつかコンビニがあるときはスリーエフを使うようにしている。


高知県以外でコンビニを利用する時は、外で立ったまま食べるか地べたに座って食べることになる。ある四国の方に聞いた話だが、子供の頃、親から、汚くて臭いからお遍路には近づかないよう言い聞かされていたという。大の大人が地べたに座って物を食べる姿を見れば今時の子供達は嫌悪感を持つであろう。現に私も好奇の目で見られたことが1度ならずあった。大手コンビニは、汚されたり夜間に若者がたむろすることを恐れてベンチを置かないのであろうが、スリーエフでは何も不具合は発生していないようなので、お遍路の立場からすれば是非ベンチを置いて欲しいとつくづく思う。


大岐海岸)

大岐海岸で記念写真

スリーエフからは岡山(2)さんと前後しながら民宿「星空」に向かう。途中、大岐海岸を見下ろす展望台で珍しく団体さんと一緒になる。この時期団体さんも少ないようで、これまで国道で行過ぎる団体バスはあったが、休憩地で一緒になったのは初めてだ。団体さんも歩き遍路には興味を持ったようで、関西弁丸出しの何人かの方と話し記念写真のシャッターを押してもらう。


民宿「星空」は80歳ぐらいのご夫婦が経営しており、通常は2食付で6500円のところが星空は5000円、更に洗濯機200円乾燥機100円程度がかかるところが無料で洗濯してくれる。ご主人は、若い頃から仏教やキリスト教などあらゆる宗教を研究していたそうで、民宿も「お遍路さんに喜んでもらうことが最大の喜び」で経営しており、開業当初の9年間は無料だったが、同業者からの苦情と保健所の指導で現在は5000円にしているという。食後ご主人からいろいろな話を伺ったが、例の札所の位置と数については、諸説あるが良くわからないとの返事だった。


  

参拝した札所:なし

  

歩いた距離 :36.2km

7月7日(水)  20日目

晴れ。岡山(2)さんと一緒に足摺岬に向けて星空を発つ。荷物を星空に預けての打戻りになる。間もなく捕鯨で有名な窪津漁港を通る。土地柄か「ホエール・ウォチング」の看板が目立つ。窪津漁港を見下ろす展望台で徳島県の夫婦遍路に出会う。四国の人のお遍路は珍しく、民宿利用の区切り打ちで回っている。奥様はお元気な人で、奥様を立てるようなご主人の話しぶりがほほえましい。岡山(2)さんは、徳島さんから大きな桧風呂と料理が美味しいとの情報を得て、今夜の宿を同じ民宿の「いさりび」に決める。


38番金剛福寺手前6km付近の津呂の遍路沿いに善根宿があった。実は、「津呂の善根宿」の評判は聞いており泊まりたい宿であったが、津呂の場所がわからず候補から外していた。岡山(2)さんは津呂をよく知っており、昔は土佐山内家の保護を受けて窪津よりも津呂のほうが捕鯨基地として栄えていたという。そうしたことが山本一力の「いすず鳴る」という小説に描かれていると教えてくれた。


10時30分38番金剛福寺を打つ。足摺岬にはジョン万次郎を記念したジョン万ハウスがあって、足湯に浸かりながらの眺望が素晴らしいとの評判を聞いていたので足を伸ばした。すぐにジョン万ハウスは見つかったが誰もいない。戸も閉まっている。 あれ? もしかしたら水曜日は定休日?。1/7の確率に的中してしまうなんて、この運の悪さよ!


打ち戻って星空に寄り荷物を受け取って本日の野宿予定地の真念庵近くの休憩所に向かう。昨日通った同じ道なのに、180度見る方向が異なると景色や家並みが初めてのように感じられて全く憶えていない。民宿「いさりび」で岡山(2)さんと別れ、4時ごろ昨日寄ったスリーエフに着く。足摺岬までの間にはコンビニはないので行きも帰りもここが食料の補給点となる。


オランダの若いカップル

オランダの元気なカップル

買い物と休憩の後に発とうとすると、偶然民宿「星空」のご主人ご夫妻が車で入ってくる。この先の三原村の知人宅に行くとのこと。しばし雑談の後いざ出発しようとすると、何と驚いたことに、6月21日に栄タクシーの善根宿で一緒になったオランダのカップルさんが来るではないか。インガは疲労困憊、倒れんばかりの様子でベンチに座る。お互い再会を喜びこれまでの出来事などで話に花が咲く。インガの足のマメはだいぶ良くなり、風通しをよくするため編み上げ風のスリッパを履いている。エスコート役の沖縄さんは1日だけで別れたという。


その後は、民宿と沿道の方のお接待で今日まで来た。特に、外国の若いカップルには皆さん親切だったようで、善根宿以外にもある主婦から家に泊まるようお接待されたり、英語の堪能な女性から知り合いの家に泊まるよう紹介されたりした。かなりの思い込みで始まったお遍路であるが、思い込みどうりのお接待が実現しているようで何よりだ。


ところで二人の名前について、エリックはアメリカ人にも多いので米国系かそれとも英国系かと尋ねたら、即座に「祖先はバイキングだ」との答えが返ってきた。私は、つい米英を優先で考えていたが、英国人も米国人も元をただせばバイキングの末裔、エリックのバイキングに対する誇りの高さを感じた。インガはドイツ系かと問うと、もともとスカンジナビア地方に多い名前だという。二人は今晩はここのスリーエフの隣にある民宿「安宿」に泊まる予定だという。間もなく6時になる。予想外の長い休憩になってしまったが、お互いの無事を祈りつつ別れた。


実は、この二人とはこの後直接会うことはなかったが、のちの7月24日に泊まった善根宿「うたんぐら」に、私が泊まった翌々日に泊まっていることが、帰宅後に「うたんぐら」のホームページを見てわかった。


休憩所までは約5km、夕闇が迫る7時ごろに着いた。早速東屋行くとお遍路がひとり休んでいる。挨拶しようと近づくと、何と7月2日に国民宿舎「土佐」で同宿した岡山(1)さんだった。再会を喜んで話を聞くとこれから足摺に向かうという。私より2日行程遅れている。彼は私が出た後に朝食を食べて「土佐」を発ったが、間もなく腹痛に襲われ、我慢できなくて途中の民宿に転がり込み、医者にかかって2日間休養したそうだ。その朝食は、宿泊当日の夕食用に買った期限切れ間近の安売り弁当で、私が同室していたので遠慮して食べなかったものだという。知らなかったとは言え、申し訳ない結果になってしまった。


話に夢中になっていると突然民宿「星空」のご主人が現れ、お接待だといって昆布の押し寿司を差し出す。とても驚いたが有難くいただく。押し寿司は明らかに手作りで、途中で店で買ったものではない。岡山(1)さんによれば、ご夫妻が乗った車は大分前から駐車場に停まっていたという。三原村の知人宅で作ってもらった可能性もあるが、もしかしたら自宅で差し入れのために作ったのかもしれない、いやもしかしたら「お遍路さんが喜んでくれることが最高の幸せ」というご主人のこと、三原村の知人宅訪問は口実で、わざわざ見送りと差し入れのために来てくれたのかもしれない。いずれにしても、このお接待、ご親切、本当に頭の下がる思いがした。

    

四国びと 素朴なしぐさで お接待  (自作)


暗闇のなか懐中電灯を頼りに急いでテントを張り、就寝態勢に入る。すると岡山(1)さんが、さっきから鈴の音がするという。その時には私には聞こえなかったが、夜中にトイレに起きると確かに暗闇からかすかに鈴の音が聞こえる。鈴は、昔から金剛杖につけていて、人里離れた山道で熊や猪対策で自分の所在を明確にするために鳴らしている。2度目のトイレの時にも聞こえた。普段からこの種の妄想は抱かないほうだが、あまり気持ちのよいものではない。


今日は7月7日の七夕さま。多くの珍しい人に再会した不思議な一日だったが、この鈴の音、何かが私に会いに来たのだろうか。翌日、夜が明けて明るくなってもかすかに鈴の音が聞こえる。東屋から見える範囲を、目を凝らして探したが何も見当たらなかった。


  

参拝した札所:38番金剛福寺

  

歩いた距離 :47.3km

 
 

7月8日(木)  21日目

7時 岡山(1)さんと別れ休憩所を発つ。今日の目標は一本松温泉、約45kmの距離。今日も頑張るぞ!

真念庵の脇を通って三原村に向けて山道に入る。人里離れているので緑が一段と濃く、脇を流れている渓流の水がとても綺麗だ。渓流が流れる音は心地よいものだが、しかし音が聞こえている間は峠は遠い。いつまで続くかわからない坂道をあえぎながら登るうちに次第に沢音が小さくなり、あたり一帯に物音の絶えた静けさを感じるようになると、漸く峠に近づく。


三原村の特産物展示販売所で店番のご婦人に声を掛けられ、冷たいお茶と果物のお接待を受ける。途中で汗拭き用のタオルを落としたことに気づき雑貨店に入ったところ、「買わなくていいよ、宣伝用のタオルだけど」と言ってお接待してくれた。

神ノ木川の清流

神ノ木川の清流

三原村は公園が多く野宿ポイントも沢山ある。梅ノ木公園の橋から見た川のなんと綺麗なことか。川岸の小高い丘には東屋もある。 綺麗な水となれば矢も盾も堪らない。早速東屋に行って荷物を降ろし、パンツ姿で川に入る。何と気持ちのよいことだろう。そうだ、予定より早く進んでいるのでここで1日休むことにしよう。そうと決めたらゆっくりできる。昼食をとり、また水に入ったりしていると急に雲が湧き出しあたりが暗くなる。こんな山の中で豪雨に襲われたら危険だ。決めたばかりの決心をすぐに変更して先に進むことにする。


少し時間をロスしたので一本松温泉までは無理と考え、39番延光寺の宿坊に宿をとろうと電話を掛けたが携帯が通じない。山の奥過ぎるのだ。携帯が通じないなら仕方がない、最初の予定の一本松温泉にしよう。再度決心を変更して最初の予定に戻す。一本松温泉までは約28km、急げば6時間ぐらいだろう。現在12時半、延光寺を打つ時間をとっても7時ごろには着けるだろう。急いで身支度して歩き始める。


マメ防止のため靴下の2枚履きをしているが、常に汗や雨で濡れるているので男性用靴下のゴムが利かなくなり、靴の中で頻繁によじれるようになっている。できるだけ休憩を取ってよじれを直して足を乾かすようにしているが、それもあまり効果がなくなってきている。コンビニで買った婦人用と紳士用の靴下に履き替える。その後は調子が良い。


ほとんど休憩を取らずに歩き続け、7時少し前に一本松温泉に着いた。あたりはもう暗くなりかけている。一本松温泉は小高い丘の中腹にある。急いで駐車場に上がると男性が店の戸締りを終えて出てくるところだった。もう終わりなのか尋ねると、6時閉店だとの返事。"またまた不運だったなぁー"と言う気持ちが顔に出たのだろう、その男性が申し訳なさそうに「お接待です」とパンの包みを差し出してくる。有難く受け取りながら野宿する場所はないか尋ねると、この丘の上の運動公園でよくお遍路が野宿しており、隣の温泉も利用できるとの答え。 ?? そうか、店と温泉は別ものなのだ。私はここは温泉の駐車場で店はその一部と考えていたのに対し、彼は私を店に来た客だと思っているらしい。男性には今さら説明もできず、お礼を言って坂を上った。


先に温泉に向かうと、湯から上がった男性が、自分もお遍路で上の公園で野宿している、と声を掛けてきた。温泉で十分にリラック スした後で運動公園に上っていくと、野宿組3名がちょうどテントを張り終わったところだった。こうした場所では練習が行われている間は、お遍路は別の場所で待機しているのがエチケットになっている。先ほどの男性は48歳の時にお遍路にとりつかれ、以来歩き遍路で10回も回っており自宅には帰っていない。あとは最ベテランらしき人と自転車遍路の二人で、最ベテランさんが新参の私にいろいろ教えてくれる。光に集まる虫を避けてテントを張るにはどこが良いか、トイレとその電灯のスイッチの位置、携帯電話の充電用のコンセントの位置、水・冷水器の位置などきめ細かなアドバイスがあった。歩き遍路の親切さと仲間意識の強さを感じた。


  

参拝した札所:39番延光寺

  

歩いた距離 :46.7km

 

7月9日(金)  22日目

4時ごろ激しい雨の音で目が覚める。"参ったなぁー"と思いつつ起きると、吹き込む雨でテントが濡れている。テントを屋根の内側に移動しているとベテランの皆さんも起きてくる。雨の日は練習もないのでこの場所も自由に使える。3人とも今日も泊まると言う。私にも勧めてくれたが、何となくじっとしていられない。約25km先の須ノ川には温泉があるのでずぶ濡れになっても体のケアはできる。先に進むことを伝えると、最ベテランさんは須ノ川にも詳しく、大きな東屋があること、駐車場横の洗面所以外の水は飲めないこと、須ノ川までは坂道が多いことなどを教えてくれた。7時、強い雨の中運動公園を発つ。


昼食のため「大介うどん」店に入る。店内で荷物を置いてキョロキョロしていると、奥から同年輩の男性が出てきて、「お遍路を見ると放ておけない。」と言いつつうどんの注文の仕方を教えてくれる。うどん玉はいくつ入れても値段は同じで、具の種類・数によって値段が追加される。どんぶりに玉を2つ入れると、「もっと食えるだろう、5つはいけるはずだ」と言う。5つ入れようかと思ったが妻の厳しい顔が目に浮かび4つにした。席に着いてからも何かとアドバイスをくれる。聞くと40番観自在寺の奥の院である宇和島市内の龍光院の住職だと言う。


3時半ごろ須ノ川公園に着いた。もしかしたら温泉は休み?と不安になりながら温泉「ゆらり内海」のほうを見ると数台の車が停まっており、店内の電灯もついている。一安心して中に入ろうとすると扉に張り紙があり、『温泉は改修中のため休業中 7月10日(土)から営業します』とある。今日は9日、今日まで休み。--------何とついてないことか。


 
須ノ川公園

須ノ川公園の大きな東屋で野宿

仕方なく公園の東屋に向かう。東屋はとても大きく、10人分はテントが張れるだろう。須ノ川公園は約1kmの浜辺やオートキャンプ場がある、大きくて綺麗な公園だ。キャンプ場にはシャワー室もあるが、ちょっと遠いので、というよりも温泉に入れなくて歩く気もなくなったのでシャワーも止めてしまった。隣の洗面所で白衣、下着を水洗いしたのち、駐車場の売店に行き飲料水と食料を確保した。明かりがないため日暮れとともに広い東屋でひとり就寝した。


  

参拝した札所:40番観自在寺

  

歩いた距離 :29.6km

 
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