人生の余り道  (時の足跡)

熊撃ち   吉村 昭著 (ちくま文庫)

◆あらすじ

第一話 朝次郎

異常な冷夏によるエサ不足の年、裏山で草刈り中の青年が熊に襲われた。朝次郎はいつも一人で山に入るが、早期の復讐を望む遺族の気持ちを察して応援のハンターたちの同行を受け入れた。


朝次郎は先回りして熊を待ち受けたが、ハンターが近づく熊の恐怖に耐えきれずに射程外で発砲、熊は驚いて突進してきた。朝次郎は10メートルの至近距離で引き金を引いた。熊は数歩あるき、崩れるように倒れた。


熊はひどく痩せていた。食糧不足のために危険を冒して村の近くに降りてきたのだろう、朝次郎は熊への同情にも似たもの悲しさを感じた。と同時に、ハンターの発砲音がいまいましかった。


第二話 安彦

昭和44年8月、千歳市の王子製紙千歳発電所の所員住宅に住む老婆が、野苺つみに出て熊に襲われた。老練な猟師やハンターが集められた。


自衛隊出身の安彦を中心に一晩かけて熊の習性、地形、気象などを周到に検討して、翌早朝に3方向から前進した。中央から進んだ安彦はブドウ蔓の繁みに熊を発見して射殺した。


千歳川の崖付近で食い散らされた老婆の死体が発見された。屠殺場で熊を解体したところ、胃の中に人体の表皮が残っていたため遺族に渡すことになった。


第三話 与三吉

与三吉は、父の反対を押し切って父と同じ穴熊とり専門の猟師になったが、お互いに穴の場所は教えない。これまでに41頭を仕留めており、今年も10日間の予定で10歳のアイヌ犬ムクを連れて山に入った。


熊は見つからず、父への競争心もあり、意地になった。札幌から倶知安まで20日近くも歩き、空腹と疲労で気力も失われた。金もないためムクの綱を解いて放ち、自分だけ列車で帰った。


帰宅して10日目、思いがけず庭先にムクが立っていた。痩せこけ、泥まみれ、足の爪には血がにじんでいた。ムクは急に老いた。2年後13歳になったムクは自分で綱をかみ切って姿を消し、再び戻ってこなかった。


ムクが姿を消して1カ月、風邪を引きがちだった父が熊穴を教えるとつぶやいた。命と同じように大切にしていた穴を教える父に、対抗心が薄れていくのを感じた。足の弱った父を見るのが耐え難かった。


その年の暮れ、父は風邪をひき発熱して食欲を失った。与三吉は不吉なものを感じて市内の病院に運んだが、翌日の夕方、あっけなく息を引き取った。


第四話 菊次郎

昭和17年、千歳市で娘が万年草を採っている時にクマに襲われ、4日後に遺体が発見された。菊次郎ら5人の猟師が林に向かった。現場の大木に残された爪の跡から、熊は逃げる娘を何度も引きずり下して弄んだ様子が明らかだった。


林の奥でアイヌ犬の激しい吠え声が響いた。菊次郎は走り出し、大木に駆け上った熊を仕留めた。胃の中から毛髪が絡まった娘の腰巻の繊維が出た。普通なら皆で熊の肉を食べるのだが、村の者たちはその熊をばらばらにして川へ捨てた。


第五話 幸太郎

富山県の貧しい朝日村ではものを分かち合う習慣があり、熊も村の共同所有物となった。北海道の熊と異なり本州の月の輪熊は小さく、木の実を好み自分から人を襲うことは稀だった。


昭和6年早春、陸軍で射撃優秀者だった幸太郎ら猟師と勢子が総出で熊を求めて山に入った。勢子の誘導もうまくいき、木の上で待った幸太郎が至近距離で熊を撃ち倒した。


約30年間に百頭以上の熊を仕留めた幸太郎は65歳になり、酒を飲みながら1頭の仔熊のことを思い出していた。


雌熊を倒し、その仔熊を炉端で飼っていた。ある夜、仔熊が部屋に垂らされた熊の毛皮にしがみついていた。それは仔熊の母親の干からびた乳だった。幸太郎は、仔熊を置いておくことに耐えられず、ただ同然の値で売りはらってしまった。


第六話 政一と栄次郎

政一は5年も山に入っているが成果がなかった。昭和35年10月千歳市の防風林に熊が出た。猟友仲間の栄次郎と二人で向かい、仔熊を連れた母熊を見つけたが、準備不足で逃がしてしまった。


3年後の早春、2泊の予定で山に入った二人は、大熊を見つけたが風上に位置していたため逃げられた。足跡をたどり翌日崖下の熊を見つけ、二人とも1発づつ命中させて初の獲物を獲った。


更に別の熊の足跡を見つけた。二人は運がついていると思い仕留めた熊の肉を食いながら3日間追い続けたが、消化不良を起こし引き返した。初の成果に村人は酒宴を開いたが、政一は肉を見るのもいや、栄次郎は消化器をおかされて1カ月も寝込んでしまった。


第七話 耕平

孤独を好む耕平はいつも一人で山に入った。15年も経って熊の進む方向がわかるようになった彼は、ひたすら熊を待つ戦法をとった。


妻を娶って7年後の春も山に入った。20日後に山から戻ると愛する妻は急性肺炎で遺骨になっていた。自分の不在を悔やみ、1年間喪に服し銃はとらないと誓った。従弟・俊一の息子が小川で熊に襲われた。


周囲から強く頼まれ、耕平は村田銃を持った。一人で行くと主張したが、俊一に泣いて頼まれ連れていくことにした。熊の足跡を2日間追い、熊の来る方向を見定めて待ち受けた。俊一には隠れるよう厳しく言った。


熊は予想どおりに進んでくる。耕平が引き金に指をかけて待つと、恐怖に耐えられず俊一が絶叫を上げながら逃げ出した。至近の熊が公平にのしかかってきた。耕平は無我夢中で引き金を引いた。


熊の重さで背骨が折れそうに感じた。空白の時間が流れたのち、熊の血が垂れ落ちる音を耳にした。熊は死んでいた。耕平は深い安堵を感じ、熊の下から這い出した。俊一は林のはずれで放心したように立っていた。

仲間を捨てて逃げた男は、猟師の世界では生きることを許されない。


◆感 想

人を弄び、あざむく知恵を持ち、飢えた時は人を食らう獰猛な熊。厳しい大自然を背景に、猟師と熊の息づまる対決を実際に起きた事件に題材を取って、極めてリアルに描写されている。


七話のうち六話は北海道の羆(ヒグマ)、一話は富山が舞台の月の輪熊である。内地の月の輪熊は小柄で植物性のものを主食とするが、北海道の羆は巨体が多く、植物性のほかに肉食でもあり、牛、羊などの他人間も襲う。


各表題が人名になっているとおり、この短編集では、猟師の仕事に対する姿勢や情熱も重要なテーマになっている。彼らはいずれも孤独を好むので周囲から偏屈者と疎まれているが、いざとなれば頼りになるという姿も魅力的だ。


吉村昭には動物をテーマにした作品が多く、熊と言えば名作の「羆嵐」、短編集として「羆」がある。本作の「熊撃ち」を取材する間に、国内最悪の獣害事件を知り、改めて取材しなおして「『羆嵐』 が誕生したという。


今年(2023年)は例年にない酷暑で山間部の木の実が不作のため各地で熊が多数出没し、住民が襲われる被害が相次ぎ社会問題化している。さらに今年は暖冬となる見込みで、穴に入る12月でも熊の出没に注意が必要となる。


私も、「熊野古道」(8月2日(木):第3日目)では熊に出会った人に直接会った。

五百瀬の民宿「政所」に宿泊した際、同宿したイギリス人兄弟が熊に出会ったという。私も、山中の古道はでは暗くて不気味さを感じ、杖に鈴をつけて鳴らしたり、時には大声をあげながら歩いていた。


2023.12.01読了

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