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人生の余り道  (時の足跡)

雪の花         吉村昭著    新潮文庫

あらすじ

本書には、表題の中編「島抜け」と短編2作の「欠けた椀」「梅の刺青」が収録されている。


「島抜け」江戸時代後期(1844年)、大阪の名講釈師・瑞龍の講釈が幕府を不快にさせた。通常であれば高座差し止め程度の罰であるものが、水野忠邦による天保の改革と重なって島流しになった。劣悪な船内に3か月も閉じ込められて漸く種子島に着いた。


島では軟禁生活が続いたが、仲間3人と釣りに出た際に丸木船を見つけたことで島抜けを思いつく。艱難辛苦の末に奇跡的に清国に漂着した彼らは漂流民と偽ったところ、清国の好意で長崎に送り返された。


出島では罪人として厳しい取り調べを受けることになり、島抜けがばれたら死罪になるので再び逃亡。瑞龍は防州の三田尻で講釈師として潜んだが、遂に捕縛されて1856年(安政3年)に斬首された。


「欠けた碗」江戸時代、甲斐の国を凶作が襲った。由蔵の息子は餓死、嫁のかよも衰弱し半病人の状態となった。代官所が奨める藁餅(水で柔らかくしたわら刻んで捏ねたもの)では空腹を癒すことはできず、由蔵は死を予感した。


村からは流民となって海に向かう者が出始めた。由蔵も気がふれたかよを連れて駿府の海に向かった。流民の立ち入りを禁じる村もあったが、ある時寺で僅かな藁餅をめぐんで貰い、かよに与えようとしたが食べる力もなく冷たい雨の中で死んだ。


由蔵は、掘り起こされて食われるのを恐れて死体を川に流そうと考えた。他人の目に触れないうちにと急いで引きずり、力を込めて押すと、流れに乗って濁った水に没した。


「梅の刺青」古来、解剖は遺体を損なうとして禁制であった。江戸時代に至って蘭学の影響で、1754年天皇の侍医である山脇東洋によって初めて解剖が行われた。以降、1771年の杉田玄白、前野良沢らの『解体新書』を経て、解剖学こそが西洋医学の基礎であるとして蘭学医たちは粘り強く研究を続けた。


当初は野捨てされる刑死者の遺体を、江戸末期には梅毒の重症患者の生前献体を、明治後は再び刑死者の遺体が医学所で解剖されるようになった。中には、政府転覆を企てて刑死した米沢藩士雲井龍雄の一党も解剖されたこともある。


感 想

「島抜け」は、著者が漂流民の吟味書で『講釈師が3人の流人とともに脱島した』という10行ほどの記述を見つけて、元になる記録があると直感して長崎などを探し歩き全容をつかんだという。優れた講釈師が時代の波に翻弄されながらも、己の頭脳と才覚を頼りに果敢に生き抜いた瑞龍という男に感銘を受けた。


著者特有の、史実に基づく細部へのこだわりと抑制された文章には毎度頭が下がる思いだ。遠島になった瑞龍は不運としか言いようがないが、輸送にあたった薩摩藩の下級役人、種子島島民、清国など行く先々で心温まる扱いを受けたことは、著者の瑞龍に対する気持ちが表れているようで救われた。


「欠けた碗」は、著者が甲府市の図書館で古記録を調べる折、流民阻止の為に村の入り口に「物乞い入るを禁ず」という立札を立てたという記述に刺激を受けて書いた、著者には珍しいフィクションだという。


文献に残る記録から、食料とは言えない藁を練り込んだ藁団子が救済食として奨励された事実や、「夫食貸し」という代官が米を貧民に貸す制度(翌年から5年間で利子を加えて返済)、口減らし、山間部から海浜部への流民の移動、寺院の施粥といった事象が織り込まれている。


山間部の流民がなぜ海岸部に移動するのか不思議だったが、海に行けば貝や海草があることが理由だという。ところが、衰えた体力では海岸にはたどり着かず、多くの流民が死んだ。なんとも悲惨なことだと思う。


「梅の刺青」は、日本初の生前献体を行った梅毒の重症患者だった遊女の腕に、梅の小枝の刺青があったことで著者が表題とした。医学の進歩には解剖が不可欠であるが、明治初期まではそれが叶わなかった。仮に本人が希望しても親類縁者がことごとく反対し、貧民は野辺にさらされ獣の餌になるしかなかった。


この物語は現在では当然なことと受け入れられている事柄も、それに携わった人たちの苦労を微細に綴って、多難な障害を経て達成されたことを伝えている。


2018.09.15読了

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