人生の余り道  (時の足跡)

鬼の冠       津本陽著  新潮文庫

あらすじ

会津に生まれた惣角は、武道家の父から剣や棒術などを学んだ後、明治6年、14歳で東京の榊原道場に入門して直心影流を学んだ。16歳で霊山神社宮司・保科近悳(ちかのり)から大東流合気柔術の後継者として迎えられたが、飽き足らずに17歳で武者修行に出た。身の丈150センチ足らずの小男にも拘らず、命を懸けた他流試合や野試合で実戦的な技を磨いた。


惣角19歳の頃、仙台へ向かう山中で道路工事中の100名以上のならず者集団と渡り合って、40人近くを殺傷したが自らも瀕死の重傷を負った。この乱闘事件では死罪が免れぬところを漸く無罪を勝ち取ったが、素手による体術の重要性を自覚した惣角は、このあと約20年にわたって武者修行の傍ら自ら毎日合気術の稽古を続けた。


39歳(明治31年)になった惣角は保科近悳の下に帰り、近悳から合気柔術の秘伝を伝授されて、「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受けた。惣角は、遠知力、心眼力などの不思議な力を会得し、水の入った湯飲み茶碗を「気」で割り、武道家たちの手首を軽く掴むだけで空中を一回転させて畳に叩きつけることができた。


明治37年、警察の要請を受けた惣角は、北海道・東北を縄張りとする博徒集団・丸茂一家と対決、死を覚悟して単身乗り込み、30貫はあろう大親分を屈服させた。帰路東北各地では侠客や警察署に招かれて指導、惣角を小男と侮る巨漢の猛者をことごとく打ち負かしたため、多くの政治家、軍人、警察などの高官が惣角の教えを乞うた。


惣角は道場を構えず生涯の大半を、国内各地を放浪して合気柔術の巡教に務めた。70、80歳を過ぎても威力は衰えず、血気あふれる猛者たちを投げ飛ばし、翻弄した。太平洋戦争が始まったころに北海道の自宅に戻ったが、昭和17年秋に突然姿を消し、翌年2月に青森県で放浪中に病に伏し生涯を終えた。享年84歳だった。


感 想

武田惣角は人生の大半を全国、いや世界を放浪して武者修行を重ねて腕自慢の猛者をことごとく屈服させたことが、本書に紹介されている。小説なので多少の誇張があるだろうが、努力家で並外れた技量の持ち主であることは間違いない。と同時にこうした偉業が可能だったのは、当時の時代背景も影響していると思う。


現代ではすぐに電波で拡散されて相手に技や弱点が研究されてしまうが、当時は情報が全く伝わらないので、「敵」を知らぬまま対戦することになる。評判の惣角に会ってみると150センチに満たない小男、噂と現実の余りにも大きなギャップに相手は惣角を見くびってしまう。惣角は必死の鍛錬で常人では思いつかぬ必殺技を持っているので、こうした勝負では連戦連勝もあり得ない話ではないと思う。


つい先日(2017年10月9日)の読売新聞に、全国各地の古武道33流派の約150人が鹿島神宮で行われた古武道大会に参加し、迫力ある剣術や柔術などを演じたと報じられ、流派の一つとして「大東流合気柔術」のカナダ出身の武道家が紹介されていた。これまでなら見逃してしまう記事だが、本書を読んでいる時でもあり目に留まった。


惣角は1859年(安政6年)の生まれ、翌1860年に生まれた人に加納治五郎がいる。ともに柔術から出発したが、惣角は保科近悳の勧めで合気柔術、即ち現在の合気道に通じる道を歩んだ。一方、加納治五郎は、柔術だけでなく剣術や棒術などの古武道や西洋のレスリングなどを取り入れて柔道を創設し、組織化・近代化を図り、今やオリンピック種目として世界に広まっている。


惣角は、「合気の技は言葉では説明出来ない。合気は師匠の直接指導で稽古鍛錬の結果の感覚によってのみ理解できるものだ」と述べ、柔道については「口で言ってわかるようでは本来の武芸とは言えない」と批判している。惣角が巡教した各地に所在する弟子がそれぞれ「直伝」を主張するため、流派としてまとまらずに知名度が低いのもこの辺に理由があると思う。


余談だが、本書に登場する保科近悳は元会津藩家老・西郷頼母のことで、戊辰戦争では、母、妹2人、妻そして娘5人の女人全員が足手まといにならぬようにと自害した。頼母は幕府への恭順を主張したため追放され、11歳の長男を連れて会津若松を脱したが、長男はほどなく病没した。養子に迎えた四郎は、後に上京して講道館に入門し柔道家として大成した。小説や映画で有名な「姿三四郎」はこの四郎がモデルとされている。


2017.10.09 読了

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