人生の余り道  (時の足跡)

海の史劇         吉村 昭著        (新潮文庫)


あらすじ

日本陸軍の補給路を断って戦況を一挙に挽回するため、ロジェストヴェンスキー中将は戦艦、巡洋艦、駆逐艦、病院船など38隻の艦隊を率いて明治37年9月極東に向け出発した。出港直後から常に日本海軍の奇襲攻撃の噂に怯えつつ、日本の同盟国イギリス海軍から執拗な妨害を受けた上に、同盟国のフランスやドイツの非協力的態度によって燃料の石炭確保に困難を極めた。熱帯のマダガスカル島では、極東到着を急ぐにも拘らずニコライ皇帝の命で増援艦隊を待つため足止めされ、また熱暑地獄に苦しみ不潔と病気で多くの犠牲者を出し兵士たちの士気も低下した。


一方旅順では、旅順港内のロシア艦隊撃滅を急ぐ大本営に対して、第3軍の乃木大将は旅順要塞の正面突破にこだわりいたずらに戦力を消耗していた。乃木大将に指揮能力がないと判断した満州軍参謀長児玉大将は乃木大将から指揮権を取り上げ、一気に二〇三高地を落として、旅順港内のロシア艦隊を猛砲撃で撃沈させた。連合艦隊は直ちに艦艇の修理と迎え撃つ準備に全力を尽くした。


マダガスカル島を出たバルチック艦隊の行方はわからず、日本国内はバルチック艦隊が朝鮮海峡か、津軽海峡か、あるいは宗谷海峡のいずれのルートを取るのか、不安と恐れで国論が混迷した。そうした中でも東郷連合艦隊司令長官は、終始一貫して朝鮮海峡との判断を崩さずに連合艦隊を集中して訓練を重ねた。


バルチック艦隊は漸くベトナムのカムラン湾に着いたが、最後の石炭補給もフランスの非協力で思うに任せず、1カ月余りを浪費した。増援艦隊と合流したバルチック艦隊は、5月27日最短の朝鮮海峡コースをとって一気にウラジオストック港を目指した。しかし、準備を整えた連合艦隊の予想外の敵前回頭によるT字戦法によって瞬く間に形成は暗転、夜になると更に日本海軍の水雷艇攻撃で残った艦艇も修羅場に追い込まれた。翌日には指揮権を継いだネボガトフ少将は、日本艦隊に囲まれて戦艦2隻とともに降伏した。


国力の限界を自覚している日本政府・軍首脳は日本海海戦の勝利を機に、アメリカの仲介を得てポーツマスで和平交渉に入ったが、賠償金も取れず占領した樺太も半分返したことに対する国民の反発は大きく各地で焼打ち事件が発生した。しかし、ロシア兵捕虜に対しては模範的に処遇した。ロジェストウェンスキー中将は革命の混乱の中を帰国、終戦から3年後に官位を剥奪されてひっそりと世を去った。


感 想

著者吉村昭は、史実を追って抑制的な筆致でロジェストウェンスキー中将に率いられたバルチック艦隊の大航海の様子を、ロシア側の記録に基づいて丹念に描き出している。本書ではロジェストウェンスキー中将に関わることを中心に、彼とバルチック艦隊を追いながら、それと並行して進展していくロシア本国と日本・日本軍の出来事を横糸のように丁寧に描いていくことによって、これまでにない日露戦争という一つの史劇を織りあげた。ここではロジェストウェンスキー中将に対して、著者が先入観を排し、それ故にこそ温かい視線が注がれていると感じた。


その航海は燃料となる石炭の確保や途中のマダガスカル島での滞留など、大きな困難を伴うものであったが、バルチック艦隊は何とかそれらを乗り越えて次第に日本海へと近づいてくる。一方、待ち受ける日本では、開戦当初の不安が陸上戦の連勝で一旦は歓喜に変わったものの、バルチック艦隊が東シナ海に入ったことでロシアの巨大艦隊の襲来がいよいよ現実となり、日本が滅亡するのではないかとの絶望感に襲われていた。今では結果が分かっているのでその恐怖心は想像もできないが、筆者によって混乱するその国民心理が淡々と記述されているのが印象的だ。


東郷大将は、黄海海戦の教訓から、射撃練度が高くて小口径砲に優る連合艦隊が勝つためには、バルチック艦隊と同方向に前進しつつ接近戦に持ち込むしかないと考えた。しかし進路変更は敵の集中砲火を浴びる弱点を生む。事実ロシア側は連合艦隊の敵前回頭を見て「勝った」と狂喜し、功を焦って各艦が勝手に砲撃を開始した。当時は測距技術が未熟だったため前もって試射が必要だったが、一斉に勝手に撃ったため着弾点が確認できなかったという。


態勢を整えた連合艦隊は砲撃開始10分で敵旗艦以下2隻の戦艦に大損害を与えて勝敗を決した。勝ち負けには多くの要因が関係するが、東郷大将が戦後述懐したように、世界に例を見ない大海戦が、「試射」という基本中の基本手順を行わなかったことで勝負が決まってしまった。「基本」の重要さは人生のあらゆる場面でも見られることでとても参考になる。


著者は、かなり率直かつ辛辣な表現で乃木大将率いる第三軍司令部の無能さを記述している。第一線将兵に大損害を出しながら遠く安全な場所に司令部を置き、乃木大将をはじめ司令部員は第一線を視察したこともない。怒った児玉大将が司令部員に前線視察を命じると、乃木大将は「第一線は危険だ。身の安全を心から祈る」と慈愛のこもった眼で送り出した。著者はこの他いくつかの事例を挙げて、乃木大将を「指揮官として能力がない」と述べている。しかしウィキペディアによれば、著者が参考にした資料には偏りがあると思われ、乃木大将の評価については諸説あるのが実情である。


日本はハーグ条約を忠実に守って捕虜を取り扱った。旅順の水師営の会見では「武士の名誉を保持せしめよ」との明治天皇の命で、敗将ステッセル将軍たち将校に帯剣を赦した。ロシア軍捕虜は日本全国各地に送られて厚遇された。特に松山収容所は有名で、自由に外出したり海水浴に行ったり、更には遊郭に入ることも許された。食事は貧しい日本人よりもずっと豊かだったという。


先進国に追いつくという国是があったからだろうが、こうした厚遇はニコライ皇太子が襲われた大津事件におけるロシア側の対応に恩義を感じた明治天皇の配慮があったのではないか。一方、不凍港を求めるロシアのニコライ二世は、大津事件の後は日本人を「猿」と呼び、三国干渉をリードし、ポーツマス講和会議では「1インチの領土も、1ルーブルの賠償も応じない」と強硬に主張させたという。


バルチック艦隊は出港直後から日本海軍の魚雷攻撃におびえ、誤ってイギリスの漁船群を砲撃して大問題を起こしたが、以下は本書では触れられていないが、魚雷攻撃の噂は北欧でロシア革命を画策した明石大佐の諜報工作の成果だと思う。明石大佐の諜報工作はロシアに政情不安をもたらし戦争継続を困難にした。ドイツ皇帝が「明石ひとりで日本軍20万人に匹敵する成果を上げた」と評したほどであった。ロジェストウェンスキー中将は、戦後解放されてシベリア経由で帰国する際にも、廃墟となった町を明石大佐が支援した革命勢力の脅威に怯えながら通過している。結局ロジェストウェンスキー中将は、故郷出発から戦後家に帰りつくまで、常に明石大佐の脅威に晒されていたことになる。


2015.2.20 読了

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