人生の余り道  (時の足跡)

ふたりの桃源郷

スタッフ

監   督 : 満田康弘(山口放送)

登場人物 : 田中寅夫・フサコ、矢田恵子(三女)・安政夫妻

ナレーション : 吉岡秀隆

あらすじ

ふたりの桃源郷

今から25年前、電気も水道も電話も通じていない山口県岩国市の山奥で暮らす田中寅夫・フサコ夫妻を、山口放送が初めて取材した。以来、老夫婦と彼らを支える家族の姿を静かに追い続けた。


昭和20年、南方の戦場から無事に戻った寅夫は33歳、一からやり直そうと妻フサコの故郷に近いこの山に土地を求め、開墾を始めた。寅夫47歳の時三人の子供たちを育てるため、高度経済成長に沸く大阪へ出て個人タクシーを営んだ。子供たちが自立し夫婦も還暦を過ぎた時、「残りの人生は、夫婦であの山で過ごそう」と、自分たちの手で切り開いた思い出の山に戻って、残る人生を生きる道を選んだ。


畑でとれる季節の野菜、湧き水で沸かした風呂、窯で炊くご飯…かけがえのない二人の時間に、やがて「老い」が静かに訪れる。山のふもとの老人ホームに生活の拠点を移した後も、山のことが心から離れなかった。体調が良い時には二人して山の畑に通う。そんな老親の姿に、離れて暮らす家族たちの葛藤と模索が続く。月に一度は山に家族が集まって親を励ますが、寅夫にガンが見つかり肺気腫も併発してやがてそれも難しくなる。


大阪で一緒に暮らすことを願った子供たちであったが、結局三女の恵子と夫の安政が大阪の店をたたんで山の麓に移住、寅夫の代わりに山で畑仕事をするようになった。2007年寅夫が93歳で亡くなった後は、恵子と安政が老母フサコを背負って畑に出ていたが、フサコも痴呆が進み2013年に93歳で亡くなった。そして老夫婦亡き後に恵子と安政が選んだのは、寅夫とフサコが愛した山の暮らしであった。

感 想

新聞の映画評で、JR東中野駅近くにある映画館「ポレポレ東中野」で、老夫婦と二人を支えた家族の物語「ふたりの桃源郷」が上映されていることを知った。同映画館は、大手映画会社の配給網には乗らない、マイナーではあるが話題性のある映画を上映しており、約100席ほどの小さな劇場に一定のファンを集めている。この時午前の部では、たった一人で戦後処理に人生を捧げたドキュメンタリー映画「クワイ河に虹をかけた男」も上映されていたので、是非にと思って久しぶりに東京に出かけた。


ローカル局の山口放送は、1991年に初めて山奥に住む一組の夫婦を取材した後、2002年から2013年にかけて「家族とは何か」「生きること・老いることは何か」を問いかけた番組をシリーズで放送した。視聴者からの反響は大きく、再放送を望む声も多かったので、新たに撮影した映像を加えて本作品が再編集された。途中中断した時期を含め最初の取材から足掛け25年間、粘り強く取材・報道を続けたスタッフの情熱もすごい。


寅夫は戦後間もなくの1947年(昭和22年)に山に土地を求め、口癖のように「人間は自分で食べるものくらい、自分でつくらんと」と言って夫婦で懸命に土を耕した。還暦後に子育てを終えて再び山に戻ったのは、単に故郷が恋しいからではなく、それが二人にとって「生きること」そのものだったからだ。だから、「人間は何かすることがないといけん」と言って老人ホームからさえも山に通ったのだろう。


映画のBGMに流れる"ふるさと"の歌詞に「♪志をはたして、いつの日にか帰らん」とあるが、寅夫夫妻にとって故郷は「志をはたすために、いつの日にか帰る」場所だった。そして三女夫婦が大阪から引っ越して来て、両親を看取った後も山に残って畑を耕す姿がかつての老父母にとてもよく似ていた。後を継いだ子供もまた「志をはたすために」故郷に帰ってきたのだと、何とも言えず感慨深いものを感じた。


都会で暮らす子供たちは、山の生活が不便だろうからと老親を心配するが、老親は一向に気にせず、夫婦がお互いを大切にしつつ穏やかに生活する様子が画面にあふれている。そんな二人が本作品の主人公であることは間違いないが、もう一人素晴らしい「影」の主人公がいることに気づいた。それは三女のご主人の安政である。家業のすし屋を投げ打って転居を決心したのは安政であり、衰えた寅夫をやさしく見守り、寅夫が亡くなった後にフサコを背負って山に通い、認知症が進んだフサコが山に向かって「おとーさーん、どこにいるの」と叫ぶ姿に、やさしく目を添える、その姿に自分では到底できないと思いつつ、涙があふれた。


山口放送は、恐らく寅夫夫妻に続いてその子康子と安政夫妻の「ふたりの桃源郷」も追い続けるのだろうと思った。


2016.10.16観賞

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