人生の余り道  (時の足跡)

殿、利息でござる

スタッフ

監  督 : 中村義洋

原  作 : 磯田道史

キャスト : 穀田屋十三郎 : 阿部サダヲ

   菅原屋篤平治 : 瑛太

   浅野屋甚内  : 妻夫木聡

   先代浅野屋甚内 : 山崎努

   伊達重村 : 羽生結弦

 

あらすじ

殿、利息でござる

約250年前の江戸中期、仙台藩の容赦のない重税と賦役のため、百姓や町人の破産と夜逃げが相次いだ吉岡宿、さびれ果てた小さな村の将来を心配する十三郎は、知恵者の篤平治から「藩に大金を貸して利息を受け取る」計画を明かされた。無謀ともいえる秘策だが、打ち首も覚悟で同志を募り資金繰りに奔走して千両(約3億円)もの大金を集めた。


肝煎り、大肝煎り、代官と順序を経て漸く藩に嘆願書を提出したが、藩からは「前例がない」として却下されてしまう。諦めかけていた時、十三郎の本家である先代の浅野屋が遺言として残した吉野宿を救う熱い想いを知り、嘆願書を再提出することにした。再び関係者を命がけで説得し、遂に藩の財政担当・萱場に嘆願書は届いたが、十三郎らが提案した千両相当の寛永通宝五千貫文ではなく、金の小判で千両を出すよう条件が付けられた。これは銭相場が下がったことを逆手にとって更に八百貫文を搾り取ろうとする萱場の策略だった。


死ぬ思いで用意した銭だったが、彼らは意気消沈し進退窮まってしまった。十三郎たちは浅野屋甚内にことの顛末を話すと、既に最も多額の千五百貫文を出資していた浅野屋ではあったが、更に五百貫文を引き受けるという。ケチな金貸しと思われていた浅野屋だったが、先代の遺言を守り、吉岡宿を救うためなら家業を廃業にして一家離散になろうとも構わないとの覚悟を決めていたのだ。


小判で千両という途方もない金額を集めた十三郎たちは、漸く仙台藩にその金を上納することができた。秘策に取り掛かってから既に6年の歳月が経っていた。しかしこの時、大金を負担した浅野屋は破産し廃業に追い込まれていた。これを知った藩主・伊達重村は自ら吉岡宿を訪れ、酒屋も営んでいた浅野屋に ◎霜夜 ◎寒月 ◎春風 と書いた書を渡した。これが「殿様が名付けた酒」と評判になり店は繁盛した。その後、藩から吉岡宿に利息が支払われるようになったことで、吉岡宿は幕末まで人口が減ることはなかった。


計画が成功したことで村人が出資者たちに羨望の目を向けるようになったため、彼らは「人前で語ってはならぬ。我が家が善行を施したなどと思うな。何事も語らず、高ぶらず、地道に暮らせ」との「慎みの掟」を定めて、家族に言い残したため、後世に至るもこの偉業が話題に上ることはなかった。

感 想

この映画は、江戸時代に実在した人々の奇跡と感動の歴史秘話を著した、磯田道史著『無私の日本人』に収められた3篇の一つ「穀田屋十三郎」を原作に、中村義洋監督が深刻なテーマをユーモアたっぷりに映画化した。


原作者の磯田道史は読売新聞の文芸欄に一文を寄せており、それによれば、映画『武士の家計簿』を観た人から、「私の故郷・吉岡宿にも、涙なくしては語れない立派な人たちがいました。書いてください」との手紙が来た。早速古文書「国恩記」を読んで「これはすごい」と思い「文芸春秋」に書いた。普通であればこれで関係者から接触があるはずなのに連絡がない。細部の取材のため電話帳を頼りに宮城県大和町(元の吉岡宿)の「酒の穀田屋」に電話をかけたら、電話に出たその人が子孫で、先祖代々「慎み」の約束を守って他言していないという。


感動した磯田氏は、京都のさる紳士に話し、その紳士が仙台の放送局に勤める娘さんに本を送り、娘さんが感動して親友の女性アナウンサーに本を渡し、そしてこのアナウンサーの夫が映画監督の中村義洋だったという。感動した中村監督は著者の磯田氏を訪ねて熱心に映画化を申し出たという。


主演が阿部サダオだったので、この映画はコメディタッチだと思っていたが、涙も温かさもあるいい味で本当に楽しめた。単に笑えるだけではなく、先代の浅野屋の覚悟や、破産を覚悟でその遺志を受け継ぐ息子など、思わず涙腺が緩んでしまうことがあり、いい意味で裏切られた感がする。そして瑛大や妻夫木聡など若手俳優もいい味を出していたし、伊達の殿様に扮したスケート世界王者の羽生結弦の素人らしい演技も爽やかだった。


百姓の十三郎と篤平治が企てた秘策は、露見すれば死罪になる危険があった。だから、同志を獲得するためとはいえ他人に話すことの緊張感たるや大変なものだっただろう。そして村を取締る肝煎りに打ち明け、更に数十人の肝煎りを統括して、同じ百姓とはいえ名字帯刀と武士の身分が欲しい大肝煎りの同意を得なければならない。次にはその上の代官の許可を得て藩の役人を説得してもらわなければならない。こうした十三郎たちの決死の覚悟が画面によく描かれていた。


中世の武家社会では百姓が藩に訴える手段は、一揆や直訴などがあった。というよりも、訴える手段がなかったから一揆や直訴の手段をとった。歴史を読めば、百姓が藩に訴えて打首になった例は数え切れないほどある。この吉岡宿では、間に立つ者に事なかれ主義や百姓を見下す者がなかったという、武家社会における稀有な好条件が重なっていた。さらにそれを倍加したのが、関係者が子々孫々に至るまでそのことを自慢しなかったということである。


2016.06.04観賞

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