人生の余り道  (時の足跡)

海難1890

スタッフ

監  督 : 田中光敏

キャスト : 医師・田村元貞 : 内野聖陽

前半:ハル、後半:春海 : 忽那汐里(くつな しおり )

前半:ムスタファ、後半:ムラト : ケナン・エジェ

あらすじ

海難1890

1890年9月、オスマン帝国の親善訪日使節団を乗せた軍艦「エルトゥールル号」は、帰国の途中台風に遭遇し、和歌山県樫野崎沖で座礁して沈没した。乗組員600名以上が嵐の海に投げ出され、500名を超える犠牲者が出たものの、地元住民たちの献身的な救助活動によって69名の命が救われた。この事件をきっかけにトルコは大の親日国になり、日本とトルコが友情で結ばれることになった。


その後、イラン・イラク戦争の最中の1985年サダム・フセインがイラン上空を飛行する航空機に対して、48時間の猶予後に無差別攻撃を開始すると宣言した。各国は救援機を送って自国民を脱出させたが、日本は救援機を出さなかったためテヘランに日本人200余名が取り残されてしまう。日本人学校の教師・春海は、生徒とその家族を空港に行かせようと走り回る。在イラン日本大使館は日本からの救援機が来ないため、トルコ機に搭乗させてもらえるよう手を尽くした。最後の救援機が着いた時、春海の願いを聞いたトルコ大使館員・ムラトが、脱出を待つトルコの人たちに「今度は日本人を救う番だ」と訴え、日本人救出が実現した。


感 想

1985年イラン・イラク戦争で起きたテヘラン邦人救出事件、もう30年も経ってしまったがよく覚えている。

1977年に起きたダッカのハイジャック事件で、時の首相が「一人の命は地球より重い」と発言して日本赤軍の獄中犯を解放し身代金を払った同じ国が、わずか8年後に200数十名の自国民を救うために何の行動もとらなかった、この矛盾もよく覚えている。国際社会は、この二つの事件で両極端の処置を取った日本という国、いや日本人は一体何を考えているのだろうか? と驚き、戸惑いを感じたことだろう。


各国が皆救援機を送る中で、日本では、乗員の安全が保証されていないとして日本航空は政府の要請を拒絶、また、自衛隊法では想定していないからとして自衛隊の救援機も飛ばさない。大使館の最大の使命は自国民の生命を守ること。八方手を尽くした末に、最終的に大使の個人的なつながりを頼りにトルコに懇請した。


それにしても、この時の在テヘラン日本大使館員の心情を察するに、本当に気の毒だというしかない。恥ずかしかっただろう。トルコ政府は要請に応えて自国民用の1機に加えて日本人を乗せるために更に1機増派したが、そのパイロット・乗務員は、日本航空が断る理由にした「危険」をも顧みず、日本人のために志願したのだから。


このようなトルコ政府とトルコ航空の厚情の背景には、この映画で描かれた1890年(明治23年)の「エルトゥールル号」遭難事件で、日本から受けた恩義に報いるという意識もあったと言われている。映画前半の海難救出劇で登場したトルコ海軍士官と手当てに当たった村娘・ハルが、後半のテヘラン邦人救出の場面ではそれぞれ二役で、トルコ大使館員・ムラトと日本人教師・春海として登場していることで、両事件の因果関係を上手に演出している。


映画では、「エルトゥールル号」の乗組員が家族と永遠の別れを告げて航海に出るように描かれているが、結果的に遭難してしまったものの、当時東洋への航海がそれほど危険と思われていたのか気になったので、少し調べてみた。


「エルトゥールル号」は、1854年就役で排水量2344tの帆走と機関航行の、トルコ帝国が誇る大型の軍艦であった。同じ時期である幕末から明治初年頃の日本の軍艦は、「咸臨丸」は1857年就役でわずか620 tの小型艦で太平洋を往復した。大型艦としては1854年に竣工した「筑波」があるが、それでも1947tで「エルトゥールル号」に比べれば小さく、吉村昭著「白い航跡」で描かれたように遠洋航海に使用されて太平洋などを航行している。その他の軍艦のほとんどは1000t前後であったことから、「エルトゥールル号」の航海は艦の規模からすれば特に危険とは思えず、映画の演出上そのように描いたのだろう。


2015.12.15観賞

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