人生の余り道  (吹矢を楽しむ)

「弓と禅」を読む


弓と禅

著者のオイゲン・ヘリゲルは、大正末期から昭和初期にかけて、東北帝国大学に招かれて教鞭をとったドイツ人哲学者。東洋の禅を学ぶために「弓聖」と呼ばれた弓道家・阿波研造に師事した。日本の武道は、言葉を使わないで無言の間に自得するという文化。ところがドイツは、何ごとも概念と言葉で表現するという文化。著者が、この全く逆の考え方に混乱しながらも必死に修行し、その妙技を会得し成長していく様子が描かれている。


帰国後の著者の講演録をもとに様々な翻訳本が出版された。私は学生時代に弓道を学び、顧問の先生からこの本を読むように示されたが、難しすぎて放置した。最近になって吹矢を習うようになり、試行錯誤する中で何かヒントがあるような気がして再び読むようになっている。

あらすじ

弓射では身体の力を抜くことが必須であり、肩と腕の力を抜いて両手だけで引き分ける。放れでは故意に右手を開いてはいけないという。「意図を持たずにどうして放つのか」と問うが、正しい弓には意図も目的もないと一蹴される。正しく呼吸することで外部の刺激を感じなくなり、更に、呼吸そのものも意識に囚われない状態に移行して理想的な集中状態となる、と説く。


著者は、戸惑いながらも少しずつ禅の心を理解していく。師は説く「射は、自分自身ではなく"それ"が行う。射は、射手が放そうと考えなくても自ら"落ちて"くるもの」。しかし、著者にはいつまでも"落ちて"こない。稽古から3年以上が経ち、無益な時間を過ごしたと、後悔の念が湧きあがる。


稽古は進み、安土に置かれた的に当てる段階になった。師は「精神を練磨し無我を徹底させれば自然と的中する、技術は全く無関係」という。筆者には、なぜ内面が頂点に達すると的中するのか理解できない。師は「頭で理解しようとするな、自然の中には、論理的に説明できないが事実としてそうなっている事象が多々ある」と説く。


やがて著者は、弓射も禅もどうでもよいという心境になった。上手くいこうがいくまいが、気に留めなくなった。それでも稽古は続けた。ある日、射を行った直後「今まさに"それ"が行われた」と師が言う。なぜ"それ"が行われたのか、著者には分からなかった。ただ言えるのは、"それ"が起こったということ。


正しい射が行えた時、それを誇るような態度は厳しく諌められた。「悪い射に腹を立ててはならないように、よい射に喜んでもいけない。快と不快を行ったり来たりする態度を克服しなければならない」という。やがて著者は、気持ちの動揺やうごめきを超えた。

感 想

本書は、弓道を学ぶ人で知らぬ人はいないと言われるほど有名な本である。しかし、若いころ一度は放棄したことが示すように、今読んでも哲学的素養に乏しい自分には相変わらずとても難しい。でも、正しい理解かは別として、吹矢を学ぶ上でのいくつかのヒントが得られるような気がする。

狙うこと

「射は、自分自身ではなく"それ"が行う」とする阿波師範の「心で射る」に関して次のような有名なエピソードが紹介されている。

「狙わずに中てる」との教えを理解できない私に対して師は、夜間に弓道場に招いて、的側の電気を消した暗闇の的の前に一本の蚊取線香を立て、的が見えないまま矢を二本放った。一本目は的の真ん中に命中。二本目は一本目の矢筈に中たり、その矢を引き裂いていた。私はこの出来事に感銘し、心を惑わすことはなくなった。


射において、的に捕らわれてはならないことは吹矢でも同じであり、よく理解できる。

このエピソードでは、暗闇の的の前に建てた一本の蚊取線香に意味があると思う。確かに的を狙ってはいないが、蚊取線香の光が的を狙うことの代わりの役割りを果たしている。「心で射る」と言っても、蚊取線香もない真っ暗闇では的に中てることはできない。


弓を構えると、目の前の弓が的を遮るため右目で狙うことができない。これを左目が補って的を浮き上がらせるため、狙いを定めることができる。暗闇の的は見えなくても的前の線香の光は見えるので、その光を的代わりに見定めて狙っているはずだ。吹矢では筒が的を遮ることはないので、「的に捕らわれない」ことを吹矢なりの方法で具体化すればよいと思う。

呼吸法

射手は、矢をつがえた弓を両腕で高く捧げ、次に腕と肩の力を抜いて左右均等に引き分け、引き絞った状態で、射放つ頃合いになるまで持ちこたえなければならない。この時、弓の力に負け、両手が震え、呼吸が乱れるのは呼吸法が正しくないからである。息を吸い込でそれを静かに下腹に押し下げる。そこで一度溜めて静かにそれをまた吐いていく。


こうした呼吸法が自然に行われるようになると、身体の力が抜け、肩や腕の力を使わなくとも弓を引けるようになる。これを繰り返して正しい呼吸に集中することによって、弓の各動作が滑らかに一つの流れのように結ばれていくと教える。確かに、高齢の高段者が若者でも引けない強弓を、いとも自然に引いている姿を見ると納得せざるを得ない。


「身体の力を抜いて」矢を放つことは吹矢でも同じである。しかし、弓は反発力で矢を飛ばすことに対して、吹矢は強く息を吐き出して矢を飛ばすことが決定的に異なる。だから吹矢にとって学ぶべきことは、「身体の力を抜き」ながらも「強く一気に息を吐き出す」ことで、この矛盾を解決する「正しい呼吸法」を見つけ出さなければならない。

教育法

・師は説教や理由を述べず、質問にも答えない。弟子には師を模倣することのみを求め、師は忍耐力をもって静かに弟子を見ている。

・師からの教えを求める前に、弟子はまず弟子自身の工夫で解決するという苦汁をなめねばならない。

これが阿波師範の教育法であった。武芸の修業や料理人などの徒弟社会ではこの方式が主流だった。


限られた達人を育てるのか、より多くの人を一定のレベルに育てるのか、目的にもよるのだろうが、教育法は「盗ませる」ばかりではない。その対極として、山本五十六語録の「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば、人は育たじ」があると思う。 最近の調理師の養成教育では、1か月程度のマニュアル方式の速成教育が成果を上げているようだ。被教育者に適した方法で効果的に目的が達成できるのなら、その方法もありだと思う。


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