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人生の余り道  (時の足跡)

解 夏      さだまさし著    幻冬舎


解夏(げげ)には4つの短編が収められている。いずれも生や死、人生と向き合っていて、登場人物への著者・さだまさしの思い入れが良く表現された切ないけど暖かい物語となっている。


登場人物それぞれの心情を繊細に丁寧に描いており、物語の最後ではかなり心を揺さぶられる。失ってしまったものだけではなく、さらにそこからの「希望」についても書かれているのでより感動が深くなる。そして、どの話にも優しく諭し導く老人が出てくる。この人たちの言葉が本当に深い。心の奥底に話しかけて癒してくれる。

秋桜

以前、初めて本書を読んだときには「秋桜(コスモス)」の印象がとても強かった。


フィリピンに生まれたアレーナは、7歳の時、戦後30年近い孤独な闘いの末に小野田元少尉の投降する姿を素朴に「美しい」と感じ、日本という国に憧れた。スナックで働くアレーナに、「嫁は宝物だ。下劣な連中から命がけで護る」と言った義父・春夫の顔が、アレーナには敬礼する「オノダ」の顔と重なって見えた。


春夫は、アレーナに養蜂を教えた。「蜂が敵を迎え撃つのは年寄りの役目だ」「蜂は刺したら死んでしまう。だから、若い蜂にはそんなことはさせない。年寄りの蜂が攻撃して、年寄りから順に死ぬんだ。人間だけが若いもんを盾にして年寄りが生きている」。翌月、春夫は脳溢血で倒れ、逝った。あれは遺言だった。大好きだった「サムライ」が、淡々と別れを告げたのだ。


姑の喜久枝とはうまくいかず泣くこともあったが、春夫が亡くなった後、その姑が悪口をいう近所に啖呵を切った。「うちの嫁をバカにすると承知せんに。日本中探したってほかにはおらん、日本一なんだ。大事な嫁なんだ。」そしてアレーナにこう話した。「コスモスはメキシコ生まれの花。けんど誰もあの花がメキシコの花なんて思わない。秋桜はもう、大切な日本の花だで」。


そして今回、しばらく振りに本書を再読してみると、相変わらず涙なくして読むことはできなかったが、各短編から受ける印象が微妙に違ってきていた。ほとんど記憶にない「サクラサク」が妙に心に残った。この短編では認知症がテーマになっているので、"そんなことはない"と心では否定しながらも気づかされることが多かったのは、"老い"を意識するような年代になったからかもしれない。


サクラサク

あらすじ

53歳の大崎俊介は、大手電機メーカーの営業部員として全国を単身赴任したのち、3年前に東京本社に戻り、上司・部下の信頼が厚く取締役が約束される立場になっていた。しかし、家庭では単身赴任していた時の女性関係がもとで、妻・昭子とは家庭内別居の状態、20歳の長男・大介は登校拒否の末にバイト生活、17歳で高校2年の長女・咲子ともほとんど話をしない。


ある日、深夜帰宅した俊介は、80歳になる父・俊太郎が買い物に出たまま帰宅していないことを知った。昭子は全く無関心。不安に押しつぶされそうになった時、警察からの連絡で俊太郎が保護されたことを知る。失踪事件以来、俊太郎はふさぎ込んだり、時にはこれまで話したことのない敦賀での幼少時の生活などを饒舌に語ることもあった。


珍しく昭子から会社に電話が掛かってきた。「どうにかしてよ!」といきなり金切り声が飛び込んだ。俊介が帰宅すると、立ちはだかる昭子の足下に、俊太郎が自分の汚物にまみれながら床にうずくまっていた。始末しながら俊介は、絶望的な家庭状況と会社での立場の乖離に頭が真っ白になった。


まだらボケの俊太郎は、自分の落ち度も昭子の怒りも十分に解っていた。俊介は、父から家庭にも心を向けるよう諭され、大介が俊太郎のおむつの世話をしていることを知らされて愕然とした。俊太郎は、「大介は、人の痛みを感じられるいい子だよ」と話し、「貧しいと不幸は同じではない。豊かと幸福も同じではないよ」と諭した。


次の取締役会で俊介の役員就任が決まる、そんな時、大介から電話が入った。大介から「このままで一番可哀相なのは、じいちゃんだ」と言われ、もう限界だと感じた俊介は、会社を無断欠勤して、家族全員を連れて初めての家族旅行に出る決心をした。はじめはぎこちない旅行だったが、俊太郎の想い出にあった敦賀の廃屋を見つけた時、満開の桜のもとで家族のきずなが戻った。

感 想

介護でよく言われるのが介護する人の苦労であるが、それは当然として、本短編で特に印象に残ったのが介護される側の悩み、苦しさだった。まだらボケの状態で認知症が進行する段階では、痴呆と正常が交互に訪れる。そんなときの気持ちを俊太郎は次のように表現している。


『生きることはもとより恥ずかしきことなりといえども

老いてその恥ずかしさにきづかぬことこそなほ恥ずかし。

われいのち永らへども いのちに恥ずかしきことなし。いのちを恨まず。

ただおのれにみえぬ老いのあはれのみ恥ずかし。

かといひて老いをまた恨まず。

与へられしいのち、与へられし人生、かなしきもまたよろし』


かつて、老人ホームに勤務していた時、「老い」の姿、「認知症」の現実を目の当たりにしていたが、仕事として接するばかりで現実の、自分事として捉えることはほとんどなかった。今、そうした年齢に近くなって尚更に本短編が身に染みる。果たして自分が『かなしきもまたよろし』と思える心境になれるだろうか? 自信はない。


2018.12.14読了

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