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人生の余り道  (時の足跡)

雪の花         吉村昭著    新潮文庫

あらすじ

天保の大飢饉、冷夏と降り続く雨のため福井では天然痘の流行が一層激しさを増し、路上では間断なく棺をのせた大八車が埋設場に向けて走った。若い町医・笠原良策は、天然痘の災禍は仏に縋るほかないと諦めきっていた。


27歳になった良策は、優れた西洋医学に魅せられて京都の蘭方医・日野鼎哉(ていさい)に弟子入りした。そこで中国の医家本「引痘略」で『牛に発症した疱瘡(牛痘)は人間では症状が軽く、その後は一生涯疱瘡にかからない』ことを知った。問題は、鮮度の良い牛痘の苗が必須であることだった。


良策は、外国から牛痘苗を取り寄せるため、名君の誉れ高い福井藩主・松平春嶽に嘆願して幕府を説得してもらおうと考え、嘆願書を町奉行所に提出したが一向に進展しなかった。窮した良策は、藩主の侍医・中井元冲に直訴し遂に幕府の許可を得た。良策は、すでに40歳になっていた。


良策は、長崎から送られた牛痘苗を鼎哉とともにまず京都で広め、次いで福井に運ぶために、痘苗が死なぬよう幼児から幼児へと繰り返し植え付ける方法を考案した。問題は、移植する幼児を確保することだった。恐れる親に大金を払って説得し、決死の覚悟で厳冬の積雪地帯を越えて福井に連れて来た。


しかし、良策の困難はそこから始まった。いくら良策が説得しても福井には我が子に種痘を受けさせる親は少なかった。次の子への痘苗の植え付けは7日目と決まっている。種痘を受ける子供がいなければ痘苗は途絶えてしまう。


役人や藩医は妖術と言いふらし、町民からは石を投げつけられた。良策は死を覚悟して役人の非を告発したが無視され、漢方医である藩医たちの抵抗にあって効果はなかった。窮した良策は、側用人・中根雪江や藩主・春嶽に窮状を訴え、漸く役人や藩医たちも動き出した。


時代は奔流のように流れ明治を迎えた。良策は、明治3年に福井の病院医長に任じられて、ひたすら種痘の仕事に全精力を注いだ。明治13年病に侵されて72歳で死去した。


感 想

子供の頃、町中で顔にあばたのある人をよく見かけた。学校では天然痘の予防接種が行われ、上腕に針でチクチク刺されて菌を植え付けられ、数日後に腫れの状況を確認された。昭和51年に種痘は中止され、今では遠い記憶になっている。


江戸時代にはそもそも予防接種などという概念はなかったので、庶民がそれを簡単に受け入れようとしなかったのは想像に難くない。しかし、本書で描かれた笠原良策が実在の人物だっただけに、種痘のリアルな歴史を再認識した。


良策が直面した困難

・採取した苗が生きている7日目に次の幼児に植え付けなければならない。当時は交通手段も未発達で冷蔵技術もなかったため、京都から福井に痘苗を伝えるには何人もの幼児を準備する必要があったが、親を説得することは困難だった。大金を払ったが、全て自費だったため、良策は困窮を極めたという。


・役人は種痘を理解できず、良策の意見書を何年も握りつぶした。また、身分の高い藩医は町医者を見下しており、藩主・春嶽や側用人・中根雪江に好意を持たれている良策を憎んで妨害した。また町人は、貧困に喘ぐ良策を軽蔑して石を投げつけた。


良策の信念と幸運

・一途な信念に基づいて行った良策の医師としての真摯な姿勢には頭が下がる。戦後の予防接種の歴史も様々な問題を抱えているが、状況は江戸時代も現在もさして変わらぬことを知った。


・良策は、困難と引き換えに素晴らしい幸運にも恵まれたと言える。英明な藩主・春嶽のもと側用人・中根雪江や藩医・中井元冲が良策の種痘法に理解を示したことである。生きた時代が異なれば良策の情熱は実を結ばなかった。組織のリーダーの役割りの重要さを再認識した。


1796年に英国でジェンナーが開発した種痘法によって、天然痘は地球上から完全に撲滅されて、1980年世界保健機関(WHO)は根絶宣言をだした。その結果、天然痘のウイルスは、公式的には研究と緊急事態対処のためにアメリカとロシアの研究所に保存されているのみとなった。しかし、ソ連崩壊時に流出して、バイオテロなどに使用される危険性も指摘されている。


2018.09.05読了

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