人生の余り道  (時の足跡)

紙つなげ! 再生・日本製紙石巻工場  佐々涼子著  早川書房

あらすじ

2011年3月11日、宮城県石巻市の日本製紙石巻工場は津波に呑みこまれ、完全に機能停止した。製紙工場には「何があっても絶対に紙を供給し続ける」という出版社との約束がある。しかし状況は、従業員の誰もが「工場は死んだ」と口にするほど絶望的だった。にもかかわらず、工場長は半年での復興を宣言。


その日から、従業員たちの闘いが始まった。食料を入手するのも容易ではなく、電気もガスも水道も復旧していない状態での作業は、困難を極めた。東京の本社営業部と石巻工場の間の意見の対立さえ生まれた。だが、従業員はみな、工場のため、石巻のため、そして、出版社と本を待つ読者のために力を尽くし、遂に復興を成し遂げた。

感 想

石巻は、私が多賀城市で勤務していたころ牡鹿半島方面への釣行で度々通った場所、旧北上川下流の平地にひと際目立つ日和山公園、その周辺に工場が林立する風景が懐かしい。本書はその際に目にしたであろう日本製紙石巻工場の、東日本大震災による壊滅と復興に至るノンフィクション物語である。


石巻工場の復活には、原動力となったリーダーたちの決断があった。

@ 工場長不在時に地震が発生、総務課の村上は尋常でない状況を見て規定どうりに全職員に避難を指示した。持ち場を離れようとしない従業員、避難はしたが家族が心配で日和山を下りようとする従業員に「業務命令」といって従わせ、1,306名の命を救った。


A 倉田工場長は、「目標が達成できるか否かはリーダー次第」と考え、「半年で1台のマシンを立ち上げよ」と命じた。誰もが無理と考えたが、やがてそれが唯一の希望に転化し、全員がたすきを繋いで半年後に遂に石巻工場は息を吹き返した。


B 社長の芳賀は工場からの招きを待たずに3月26日石巻に向かった。工場に着いて最初に声をかけたのが、労働組合の鈴木支部長への「工場のことは心配するな」であった。組合員の心は将来への不安一杯だった。社長のこの一言で石巻工場の社員は「雇用は守られる」「家族は救われる」との安心を得た。


今まで本を読んでも紙について意識したことはなかった。そういえば、図書館へ行けば何となく重厚な空気の止まったような感じを受けるし、本屋さんではインクの混ざった新刊の匂いがする。本書によって一冊の本が出来上がるまでの過程を知り、改めて紙の質感や色合い、匂いなど気づかされることが沢山あった。


・製紙工場と出版社は不離一帯の関係にある。出版社がどんな本を出版するかで紙の質は異なる。角川文庫の紙の特徴はナチュラルな風合いで、これは8号マシンでつくる。その他コミック、CanCamなどの女性誌、教科書、参考書などそれぞれの出版社が求める紙を作らなければならない。米国のタイム誌も石巻の製品でつくられている。


・紙にはいろいろな種類がある。教科書は毎日めくっても、水に浸かっても破れないよう丈夫に造られている。コミックは子供が手にとって嬉しくなるように分厚く、しかも持ち運べるよう軽い。文庫本も、講談社は若干黄色、角川が赤くて、新潮社がめっちゃ赤というように、各出版社はその色を誇りとしている。


・津波に襲われた時には工場には膨大な量の"巻取"があった。"巻取"とは芯棒に15キロメートルもの紙を巻き付けた、重量は800キロ、海水を吸い込めば3トンにもなる、巨大なトイレットペーパーのようなもの。それが広範囲に流され、「これで家が壊された」との苦情の電話もある。道路が復旧していない中を1件ごとに回収に向かう。濡れた紙は柔らかく、腐敗して悪臭を放っている。それを少しずつ手で破って回収する。


・2000年の書籍の販売部数は約42億冊、2012年は約26億冊に落ち込んだ。少子化で市場が縮小、電子書籍化も進み製紙会社は衰退の運命にある。総力で1台のマシンを立ち上げる努力をしている最中の8月に、日本製紙グループ全体では約1,300人の合理化が断行され、石巻工場も生産能力の1/4を削減、従業員も100人整理された。


2017.10.02 読了

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