著者は昭和45年(1970年)に「三陸海岸大津波」を刊行し、その続編として本書「関東大震災」を、昭和48年(1973年)に刊行した。
大正12年9月1日午前11時58分、大激震が関東地方を襲った。建物の倒壊、直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、夥しい死者を出した。さらに、未曽有の天災は人心の混乱を呼び、様々な流言が飛び交って深刻な社会事件を誘発していく。筆者・吉村昭が20万人の命を奪った大災害を克明に描きだす。
本書は当時の2人の地震学者の確執の話から始まる。地震学の最高権威であった大森博士は、後輩の今村博士が「100年周期説」を根拠に50年以内に大地震が来ると予測したのを、「そんな予測を軽率に口にすべきではない」として徹底的に排除した。しかし結果的には今村博士の予想が的中し、しかも火災等による死者が10万から20万人との今村の被害予測が現実のものとなった。
大惨事の描写は凄惨で生々しい。2万坪の陸軍被服廠跡地は絶好の避難所だと考えていた市民が瞬く間に押し寄せ、4万人近い市民がひしめき合った。ところが昼食時だったため各所で火災が発生、大八車で持ち出した家財道具に引火して道を塞ぎ、つむじ風が発生して大八車ごと巻き上げ3万8千人もの焼死者を出した。江戸時代に度々起きた大火の教訓「火災では荷物を持ち出すな」を、東京市民は忘れてしまっていた。
遊郭の外へ出ることを禁じられていた吉原では、娼婦たちが公園に集まり熱さに耐えきれず数百人が次々と池に飛び込んだため、深場へ押し込められた者は溺死し、上の者も水面全体を覆った炎によって焼かれてしまった。
一瞬にして 通信手段が途絶え、報道機関も壊滅して情報が遮断されたため、生活の全てを失った市民の不安が高まり、「朝鮮人が来襲する!」というデマが一挙に拡散した。それが各地に自警団を作り出し、自衛のためと称して凶器で武装して朝鮮人などに対する虐殺事件を引き起こした。
新聞などの報道機関もデマ拡散に加担したため、政府は報道に対する検閲に乗り出した。つまり、 報道機関は自ら犯したミスによりその存在意義であった報道の自由を失い、その後の日本の針路を過つ大きな原因になった。筆者は関東大震災を語るうえで避けて通れない、甘粕大尉による社会主義者大杉栄らの扼殺事件の真相とその裁判の模様も詳細に述べている。
東京都は、近い将来発生すると言われる首都直下型地震による死者を、9,700人(圧死者5,600人、焼死者4,100人)と見積もっているが、なんとも甘い予測に思えてならない。関東大震災では安全と思われた避難場所の陸軍被服廠跡地で、大八車が交通途絶の主な原因になって膨大な焼死者を出した。高層ビルや自動車など近代化された人口過密の東京では、平時では予想できない事態が生じて関東大震災のレベルを超えた災害が発生する危険がある。
デマの拡散についても、東日本大震災で起きた千葉県市原市のコスモ石油千葉製油所の火災で「有害物質の雨が降るので注意」とする出所不明のメールがネット上に出回った。本書に描かれた大震災時の実相はとても参考になるが、個人として何ができるかといえば無力感ばかり、せめて情報が錯綜し混乱する中でも落ち着いて行動しなければと思う。
2017.09.17 読了