人生の余り道  (時の足跡)

殿様の通信簿     磯田道史著    新潮文庫

まえがき

本書のベースになっているのは「土芥寇讐(どかいこうしゅう)記」という、徳川幕府が隠密を使って全国の大名の公私にわたる実情を探り出して、元禄年間にまとめた調査書である。書名の意味は、「殿様が家来を土くれやゴミのように扱えば、家臣も主君を仇敵視する」という意味で、現存するものは1冊しかないという。


本書は、こうした古文書に基づき、戦国末期から元禄期までの「殿様」7人の出自や経歴、行状などを紹介し、著者が彼らの生き様等に関する解説や推論を述べている。取り上げられた人物の生き方が現代人の想像を超えるものがあって、世間一般に知られている殿様の見方が変わるかもしれない面白さがある。

水戸光圀について

「光圀卿は、文武両道をよく学び、才知発明な男である。」と誉めつつも、「学者ではあるが女癖が悪い。悪所に通って女色にふけっている」と書いている。


これについて著者は、当時の殿様は自由に外部の知識人などには会えず、それが出来るのは茶室か「お忍び」の外出しかなかった。当時の遊郭は文化サロンでもあったので、学芸に関心のあった光圀としては身分を超えた交流ができる場として活用したとして、著者は光圀を弁護している。


そして著者は、水戸光圀の「漫遊」の噂について、家康の孫という高貴な人物が好奇心に駆られて色街に出没する、この光圀の存在は当時の人々にとって衝撃的で、その噂があるだけで人々の心は十分に浮き立った。それが「水戸黄門漫遊伝説」という国民的神話に形作られたという。

浅野家について

「忠臣蔵」で有名となった浅野内匠頭は、生きている間は全くの無名であったと、「通信簿」に載っている。「利発」であるが、異常な女好きで政治問題になるくらいのものだったそうで、これを諌めない大石内蔵助などは不忠の臣と名指しで批判されている。三十路に入った浅野内匠頭は視野の狭い短慮な人物で、政治には仁愛の気味がなく、民衆に厳しく、武道と軍学に凝っていたという。


江戸城における大名の序列は石高ではなく、官位で決まる。その官位について、徳川家は足利・織田の子孫を優遇した。吉良家は足利家の子孫であるから、家禄は四千二百石だが官位は「従四位上・左近衛権少将」と、加賀百万石の前田家に迫る家格だった。一方、浅野内匠頭は五万三千石の大名でありながら「従五位下」だった。吉良上野介は特に家柄・官位にこだわり、吉良の頭の中では浅野内匠頭などボロ大名に過ぎなかった。


一方、浅野家にも特殊な事情があった。三代将軍家光は岡山の池田光政の謀反を恐れて、浅野家に赤穂城を作らせた。この築城に十五年かかっている。それが浅野家をおかしくした。軍学好きが増え、武張ってきたのである。だから浅野内匠頭という武人が、吉良上野介という文人を馬鹿にするという構造が、この事件の根底にある。


恐らく吉良は内匠頭を罵倒したのだろう。そして、あの刃傷事件が起きてしまったが、これらのことを知ると、赤穂浪士の物語は、事実と少し違って見えるのではないかと筆者は述べている。

前田家について

本書で最も力を入れているのが、金沢藩「加賀百万石」の三代藩主・前田利常である。関が原を経て天下の形勢は徳川家に定まったが、百二十万石という巨大な領地を持ち、京に近い前田家は家康に警戒され、常に取り潰しを恐れていたなかで、その殿様は何を考え、何をしたのか、戦国から太平の世へ向かうなかで、雄藩の生き延びる方策の一端を見せてくれているという。


藩祖・前田利家は戦国の気風を残した人で、豊臣秀吉に臣従を誓い、その子・利長には秀頼を守るよう遺言した。当時「前田の砂時計」という言葉があった。残り少なくなっていく前田家当主の寿命によって、豊臣政権の寿命が決まるとの意味。1つは前田利家の命が尽きれば家康は天下取りの勝負に出る。2つ目は秀頼を守る前田利長の寿命が尽きた時に家康は豊臣秀頼を滅ぼすというもの。


家康の力を知る利長は、秀頼に手を出さない約束で関ヶ原では家康に味方した。利長は人を見る目が優れていた。徳川の世で前田家が生き延びるため、利長は、8歳の弟利常に2歳の家康の孫・珠姫との政略結婚を受け入れ、利常が13歳になると当主の座を譲った。隠居した利長は間もなく自ら毒を仰いで死んだ。こうして利長は、前田家が豊臣に義理立てする理由を消滅させることで、利常が徳川方として大阪攻めに加わって、前田家が生き延びる条件を作った。


ところが家康には思わぬ事態が生じた。利常が「古今の名将」との噂が流れるほどの逸材だったのだ。後に家康は秀忠に「利常を殺せ」と意見したが、秀忠は娘婿の利常をかばい続けた。そんな重圧に耐えて生き延びた利常は、「三州割拠」という外交戦略をうちたてる。中央の政争には決して参加せず、加賀・越中・能登に立て籠ってひたすら時を待つ持久戦法を守って、百万石を幕末まで無事に持ち伝えた。


前田家は徳川家を倒しうる最大の存在であって、前田家がことを起こしていれば、徳川の運命も変わったかもしれない。前田利常は暗殺を警戒しつつ、許されるギリギリの範囲で抵抗をつづけた。その数奇な人生には、政略結婚の悲恋あり、蛇責めあり、便所の怪談あり、際どい外交ゲームありで、読者の想像を超える歴史の面白さがある。

その他

著者は、高校生のころから古文書を読んでいたという変わった人であった。東日本大震災後「自然災害は繰り返す。これまでおきた大地震の古文書を徹底的に読み返す」として、それまで務めていた国立大学を辞し、将来、南海トラフ大地震が発生した場合、甚大な被害が想定されている静岡にわざわざ転職している。


そして江戸時代の防災などに研究の軸足を移して、歴史学者にしかできない社会貢献・地域貢献を志向している。著者の慧眼で古文書の断片から、過去の人間の営みを通じて将来の「防災」に役立つ何かを見出してくれればと思う。


2017.08.14 読了

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