人生の余り道  (時の足跡)

わしの眼は十年先が見える   城山三郎著  新潮文庫


あらすじ

大原孫三郎は1880年に岡山県倉敷市の大地主の三男として生まれた。若い頃は富豪の跡取りとして放蕩の限りを尽くし、東京の専門学校時代には現在の金額で1億円もの借金を抱えたため、父親に岡山に連れ戻された。


謹慎中に社会福祉事業家の石井十次を知り、その活動に感銘を受けた孫三郎は、石井が設立した孤児院を資金面で援助した。そして、石井が日露戦争や東北地方の凶作で生じた膨大な数の孤児を収容した際には、周囲の反対を押し切って、数百億円もの私財を投げ打って支援した。


1906年(明治39年)若干27歳で父の倉敷紡績を引き継いだ孫三郎は、最初に手を付けたのが、工員の寄宿舎を建て、賃上げ、従業員教育の拡充などの厚生施策の充実だった。そして、革新的な会社経営を行いながら、地方の紡績会社を日本有数の会社に育て上げた。この孫三郎の精神は息子の總一郎にも引き継がれて、企業の「社会的責任」を果たしていくことになる。


孫三郎は、大原社会問題研究所や農業研究所を立ち上げ、有能な若者には奨学金を与えた。画家の児島虎次郎の才能を見出し、ヨーロッパに留学させるとともに西洋美術品の収集を行わせ、後に大原美術館として結実した。「金持ちの道楽」と言われながらも「わしの眼は十年先が見える」との信念に基づいて私財を注ぎ込んだ。


孫三郎が「いちばんの傑作」と評した息子・總一郎は、個性的かつ父親譲りの芯の強さで、従業員を人間として、友として扱う路線を引き継いだ。戦後ビニロンの工業化を進め、中国からそのプラント輸出を求められると、政財界、米国、台湾などの反対を押し切ってこれに応じた。


感 想

孫三郎には、石井十次などを除けば生涯親しい友人はそれほどいなかったという。甘やかされて育った放蕩息子が、父親から継いだ会社で最初にしたことが従業員の待遇改善。その後は、病院、銀行、美術館、思想研究所の設立などの社会貢献。いったい何がこのようにスケールの大きな「人物」を創り出したのだろうか。


繊維産業では過酷な労働が常態だったが、孫三郎は「資本家と労働者は、幸福を分かち合い、手を携えて成長する同志である」として、近代的労使関係づくりを行った。こんなエピソードがある。出勤率が98パーセントとの報告を受けた時、孫三郎はすぐ担当者を呼んで「どこかで無理を強いなければ、こんな数字が出るはずはない」と注意したという。企業人の孫三郎には、常に社会的良心が裏打ちされていた。


孫三郎が息子・總一郎によく言った言葉、「十人中五人が賛成するようなことは、たいてい手遅れだ。七、八人がいいと言ったら、もうやめた方がいい。二、三人ぐらいが賛成する間に、仕事はやるべきものだ」。「わしの眼は十年先が見える」が口癖の孫三郎らしい。


「日本にいる画家たちの勉強のために、本物の西洋絵画を買ってほしい」との児島虎次郎の進言を受けた孫三郎は、求めに応じて絵画購入の資金を送り続けた。これが後に、モネやゴーギャンなど世界的に著名な多くの絵画を蔵する大原美術館につながった。確かに児島虎次郎は優れた画家だが、虎次郎を見出した孫三郎の"人を見る目"と、その彼を信じて惜しげもなく私財を提供した"度量"がすごい。


2017.04.18 読了

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