人生の余り道 (時の足跡)

 除染活動で福島へ

何かお役にたちたい

東日本大震災の被害の大きさを見て、常々何か役に立てればと思っていたところ、原発事故で拡散した放射能の除染作業員を募集しており、年齢が70歳未満であることを知り早速応募、平成25年12月から3か月間にわたり参加した。これまでに社会福祉協議会などが実施した被災地でのボランティア活動に参加したことはあるが、今回は民間会社と雇用契約を結んで正式に社員として働くことになる。私にとっては人生最後の「働く機会」になるだろうと思うと、期待で胸が膨らむ。


除染地域

白河市から望む那須の除染地域

福島県は自然が豊かで観光地も多く美しい土地である。除染作業は福島県内の各自治体が数か所の地区に区分して除染業者に発注している。放射線量の強さによって予算は異なるが、住民が現に居住している比較的放射線量の少ない地域でも単純計算で1戸あたり数百万円を超える予算が投入されており、除染業務全体では計り知れないほどの税金が投入されている。これだけの税金と労力を投入しても除染の対象になるのは福島県の「点と線」だけでしかない。広大な山林は、放射線量が高いまま放置されている。如何に原発事故の被害が大きく、人力の限界を超えるものか深刻に印象付けられた。


除染作業の内容

国は法律で地上1メートルの空間放射線量を年間1ミリSvと定めている。福島県では第一原発に近い所では帰還困難、居住制限等の放射線量の高い地域があるが、多くの地域ではそれほど高くはなく、住民は現に居住して通常の生活を営んでいる。ただし、雨だれの落ちる場所などホットスポットになってやや高い数値を示すことがあるので、宅地全体を除染作業で規定の放射線量以下に下げることになる。


除染内容としては宅地除染と山林除染がある。宅地除染は、住宅の屋根・外壁・雨樋などを高圧洗浄機で洗い、庭木・防風林・側溝の剪定・除草・枝落とし・ゴミさらい、車庫などのセメント部のクリーナー洗浄などを行ったうえで、住宅とその周囲一定の範囲の地表を薄く剥ぎ取る。ただし、雨だれや下水部で線量の高いホットスポットは線量に応じて更に掘り下げる。


フレコン

家庭の庭に野積みされたフレコン

山林除染は、宅地除染に加えて山道の両脇の樹木の枝を落とし地表面の枯葉を集める。そして、この汚染土や枝葉をフレコンという特殊な容器に入れて指定された集積場所に運ぶ。ところが集積場所が決まっていないので、実際は広場を仮置場とするか個人宅の庭に集めたままになっている。


具体的作業は、例えば、地表面を剥ぎ取る際には、庭木は現物保存なので地権者の了解なく切ったり植え替えたりすることができない。だから庭木の隙間を這いずり回って小さなクワで土を削り取る、ところが冬季の寒い時期だったので土が凍ってうまく削れない。電動工具やツルハシを使うと地下の配管を割ったり、凍土が塊になって剥がれてしまう。かなり重労働で気を使う作業となる。全ての作業を地権者の了解のもとに行うので、根気のいる厳しい仕事になるし、勤務時間はもちろん休憩中も常に住民の目を意識して立ち居振る舞いを模範的にしなければならない。「立ちション」などもってのほか、一発で解雇になる。


除染風景

大雪で除染作業が除雪作業に

除染は、前もって別の社員により、詳細な測量、放射線量のモニタリング、地権者と除染内容の確認(不在者が多いので大変時間がかかる)、作業区域の表示などの作業が済んでいて、それから初めて私たちの除染作業が始まる。


作業においては、開始前後の放射線量の記録、作業過程の写真記録、指導員の点検、そして自治体による最終点検がある。自治体点検で線量が規定より下がっていないとやり直しになる。このやり直しは新規と同じ作業量になるので私たちとしては絶対に避けたいので、とても緊張して受ける。そして最終的には汚染土を詰めたフレコンを最終置場に運ぶことになるが、これが何時になるかは決まっていない。除染作業がこれほど厳格に管理された作業だとは予想もしなかった。除染作業は法律に基づく業務、「ボランティア精神」でできるものではないとつくづく思った。


作業は1組5〜6名で数個の組に分かれて各住宅の除染に当たる。私も現場のリーダーとして行動したが、除染作業の経験はないので細かいことまで現場管理者の指導を受けながら行った。内容的にはそれほど難しいことはなかったので数軒担当すれば何とか対応できるようになったが、土木器材の種類・性能・用語など専門用語に慣れるのに時間がかかり、最初のころは戸惑うことがあった。また、器材の使用に当たっては、たとえ自宅で使用している草刈り機であっても安全管理上必ず資格・免許を必要とした。何も持たない私には、スコップや鎌を使い一輪車を押すことぐらいしかできなかった。

生活雑感

作業員宿舎

快適な作業員宿舎

宿舎は作業を担当する地域によって民家やホテルなどがあると聞いていたが、実際には会社が準備した作業員宿舎に入ることができた。比較的新しいプレハブ宿舎で、約4畳の個室に冷暖房完備、真冬でもシャツ1枚で生活できる。娯楽はテレビか酒が多かったが、下戸の私は簡易机を手作りして読書か、隣室の人が設定するWiFiを利用して(勿論了解済み)インターネットを楽しんだ。周囲の音は筒抜けだが、疲れた体ではすぐにぐっすりと寝てしまうので問題なかった。


食事は、朝夕2食は食堂で家庭料理が提供される。糖尿病を患っている身にとっては栄養管理された食事が摂れるのはとても嬉しいことだった。昼食はまとめて仕出し弁当を頼む。大きな風呂が夜11時まで入れる。勤務は週6日で、日曜日は勤務も食事も風呂も休みだが、近くにコンビニがあるので食料・生活雑貨には苦労しない。バスは1日に数本しか通ってなく、雪が降ると休業することが多かったので公共交通は不便だった。


私は全作業員中の最高年齢者ではあったが、自分では若い人に負けない体力はあるつもりだった。ところが1輪車に積んだ汚染土を2人で協力して肩の高さまで持ち上げてフレコンに入れるのだが、フレコンは力が弱い側に傾いて多くの荷重がかかる。作業の初日に相方が若い人だったので力負けしてフレコンの金枠に左手を挟まれてしまった。また、腕の筋を痛めたり、軽いぎっくり腰になったりと散々で、何とか仕事を続けることができたものの、最初の1週間は本当にきつかった。その後は毎日朝晩腕立て・腹筋・腰の捻転などの運動を続けたおかげで、帰宅後に家内から逞しくなったとの評価を得るほど若返った(?)。


ある時、「コンビニに作業員が集団で入って来て解らない言葉で大声で話すので、近所の奥さんや子供たちが恐怖心を感じている」とのクレームを耳にした。そんな目で見られているのかと驚いた。しかし、よく考えてみればやむを得ないかと思い直した。私たちには「善意」の意識があるが、地域に住んでいる人達にとっては、ある日突然に原発の被害を受けた上に、今度は「除染」という名目で知らない人たちが大勢やって来て、平和で穏やかだった生活を乱していると思っているのかもしれない。勿論行き交う多くの子供たちは挨拶を交わしてくれるし、通学バスから手を振ってくれる。笑顔で接してくれる人達も多いが、複雑な住民感情の一端に触れた気がした。


定年になったのち、心の底には社会とのつながりが切れてしまったような寂寞感があった。70歳に近いこの年でこうした仕事に就く機会に恵まれて本当に良かったと思っている。わずか3カ月という短い期間ではあったが、若い人たちに交じって社会の一員として仕事ができた。しかも、約120人の仲間が同じ宿舎に寝泊まりし、同じ釜の飯を食い、同じ風呂に入るという、学生時代の合宿のような毎日を送ることができ、一挙に若返った気分にもさせてもらった。私の人生にとって大変貴重な体験であり、忘れ得ない想い出ができたと考えている。


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