人生の余り道  (時の足跡)

沈 黙

スタッフ

監  督 : マーティン・スコセッシ

原  作 : 遠藤周作

キャスト : アンドリュー・ガーフィールド : ロドリゴ

   アダム・ドライバー : ガルペ

   リーアム・ニーソン : フェレイラ

   イッセー尾形 : 長崎奉行

   窪塚洋介 : キチジロー

あらすじ

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1640年ごろ、キリスト教が禁じられた日本で棄教したとされるフェレイラ師の真相を確かめるため、若き宣教師のロドリゴとガルペが日本を目指した。2人はマカオで出会った漂流民のキチジローという日本人を案内役に、長崎に渡った。厳しい弾圧を受けている貧しい農民に布教を続けていたところ、キチジローの故郷の平戸から誘いがあり、ガルペが向かった。


やがて、長崎奉行の探索によってロドリゴの村や平戸の村でキリシタンの疑いをかけられた農民が次々と摘発され、「踏み絵」を迫られた。奉行所の役人は「形だけだから」などと優しい言葉をかけるが、従わないものは過酷な拷問をかけて処刑した。そうした拷問の際に、ガルペは海に流された信者を助けようとして命を失ったが、キチジローは「踏み絵」の度にそれを踏み、放免された。


長崎奉行の狙いはロドリゴの棄教だった。ロドリゴは、何の力にもなれない自分の弱さ、祈っても何も答えない神に疑念を抱くようになる。ある日、寺で執行された拷問で、探していた師のフェレイラ神父に出会う。フェレイラは、キリスト教は「沼」のような風土の日本では根付かない、だから今拷問を受けている民を救うことが重要だと説いた。そして、遂にロドリゴは「踏み絵」を踏んだ。


ロドリゴは、寡婦となった女性と所帯を持ち、奉行所に勤めることになった。ある日突然キチジローが訪ねてこれまでの罪を懺悔した。定期的に行われる「踏み絵」で、ロドリゴを尋ねたキチジローも呼ばれ、お守りの中の小さな十字架が見つかり捕らわれた。数年の後、ロドリゴが死んで桶に入れられた時、その胸元には夫人の手で粗末なキリスト像が差し入れられていた。


感 想

本作品は、遠藤周作著の「沈黙」が原作で、キリシタン弾圧の江戸初期に日本に渡ってきたポルトガル人宣教師の目を通して、信じることは何か、人間の弱さとは何かを描き出している。バイオレンスアクションに定評のあるスコセッシ監督らしいともいえるが、宗教をテーマに全編にわたって繰り返し拷問が描かれていることから、とても"重い"作品になっている。


本来キリスト教では「偶像崇拝」は禁じられており、その「偶像」の範囲は、キリスト像、建物である教会、その他十字架などの小物に至る全てのものを指すといわれている。しかし、現実には映画で描かれているように、宣教師は十字架に架かったキリスト像や勾玉のような小物などを使って布教した。


宗教とは精神的なものだけれど、精神的なよりどころとして「もの」がないと宣教師とそれに縋ろうとする者との繋がりが得られないのだろう。その結果、役人が「形だけでいい」と言ったのに、「踏み絵」を前にした信者は体が硬直して動けなくなり、殆どの者が処刑された。踏み絵」を踏まずに敬虔な信者として処刑されること、キチジローのように何度でも「踏み絵」を踏んで生き延びようとすることと、スコセッシ監督は、「強い人間」or「弱い人間」のどちらにメッセージを送っているのかな?と考えていた。


すると映画の最後で、棺桶に入れられたロドリゴの胸元に夫人が密かにキリスト像を忍ばせた。ロドリゴは、能面のような表情で淡々と奉行所の仕事をこなしていたが、実は心の中では「棄教」はしていなかった。この画面で、スコセッシ監督はどのような形でもよいから信仰を続けることを選択しているのだと思った。


(この映画では、イッセー尾形扮する長崎奉行が日本の宗教的風土について含蓄のある言葉を述べていたが、宗教心に薄い私にはよく理解できなかった。)


2017.02.08観賞

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